文明と格差について考えてみる
そもそも文明社会とは何でしょうか?
ラグジュアリー戦略―真のラグジュアリーブランドをいかに構築しマネジメントするか
- 作者: ジャン=ノエルカプフェレ,ヴァンサンバスティアン,Jean‐No¨el Kapferer,Vincent Bastien,長沢伸也
- 出版社/メーカー: 東洋経済新報社
- 発売日: 2011/01/28
- メディア: 単行本
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ジャン=ノエル・カプフェレ、ヴァンサン・バスティアン両氏の共著、「ラグジュアリー戦略~真のラグジュアリーブランドをいかに構築しマネジメントするか~」はラグジュアリーブランドの構築について記した本ですが、その冒頭に文明についての定義について考えさせられることがありました。
ラグジュアリーの起源は死者を埋葬しはじめたときから始まる。
その上で、ラグジュアリーは文明社会には必ず存在するものだと述べているのです。
本はそのあとでラグジュアリービジネスの構築と事例を述べているのですが、私はこの本を読んでいる間、冒頭にあった文明の定義がどうしても脳裏から離れなかったのです。
ラグジュアリーを人が人として生きるために発生するものであると定義しているところをそのまま「文明」と置き換えることもできるのではないかと考えたのです。
文明の定義を「人の命に関心を持つ」と定義したらどうでしょうか?
命に関心を無くした社会を創造してみてください。戦争であるとか、革命であるとか、あるいは大規模自然災害であるとか、たくさんの人が命を落としている場面を迎えると人間はどうなるかを。
そこに文明を感じることができるでしょうか?
「自分は人の命を大切にしている」と信じて疑わない人もいるでしょうが、目に入らないところで失われている命にも関心を持つでしょうか? あるいは、自分が敵と考えている人に対する命に関心を持つでしょうか? 誰かに対して「死ね」と言ったり、さらには死を娯楽素材としたりしていませんでしょうか?
そこに文明を感じることができるでしょうか?
文明の定義を人の命に関心を持つとした場合、文明崩壊は人の命に無関心になることと定義することができます。先に挙げた、戦争、革命、大規模自然災害は、人の命に無関心になるがゆえに文明崩壊と定義できるのです。
と同時に、この文明崩壊の定義はそのまま、皮肉と言うべきか、トマ・ピケティの「21世紀の資本」にあった格差解消の三つの起因にもなります。裏を返せば、文明社会を作り上げていることがまさに格差を生み出す要因であり、文明社会が進展すればするほど格差が広がるというパラドクスがあるのです。
しかも、格差の広がりがまさに人の命に関心を持たせなくなる土壌を生み出すのです。過労死するまで働かされたり、人権が奪われた暮らしをさせられたりする人たちがいて文明社会が成立してしまい、そこに人の命に対する関心の欠落を伴っているのです。聞いてみてください。「今まさに困っている人を助けるべき」という質問に対する答えはYESですが、「自分の生活が不便になったり値上がりしたりするのを受け入れますか」という質問に対する答えはNOであるはずです。文明社会と考える暮らしに生きる人が文明社会を維持するために人の命に無関心になり、文明社会を壊しにかかるというパラドクスもあるのです。
これは大問題であると多くの人は考えるはずです。そして、格差を無くすべきだ、と。
ところが、格差解消を訴える人たちは往々にして物騒です。言うなれば、非文明人的な行動です。攻撃的で、血が流れても関心を見せず、自分の正義と考えることならば命が失われても関心を示さないという物騒さに恐怖心を抱く人は多いでしょう。私もそうです。そして、「なぜこんな物騒なことができるのか」とも考えるのです。
ですが、格差を縮めるために選ばなければならないのが文明崩壊であるならば、その物騒な行動も、納得はできなくても理解はできるのです。大規模自然災害は人間の手でどうこうなるようなものではありませんが、残る二つ、戦争と革命は人間の手で生み出すことができます。人間の手で生み出す文明崩壊が革命と戦争というものです。
格差解消という崇高な目標のために文明を破壊するか、成熟ゆえに文明衰退を受け入れるか。それしか選択肢はないのでしょうか? 他に選択肢はないのでしょうか?
あります。
文明社会の成熟を認めなければいいのです。
まだまだ成熟の余地があると考え、成長の余地があると考え、成長を続けるのです。
ここで冒頭にあったラグジュアリーに戻りますが、成長が続くことは、成長を捨てた人にとって手に入れたラグジュアリーの地位を失うことを意味します。激しい抵抗となるでしょうし、実際になっています。
それでも、文明社会の崩壊や破壊を招いて人の命に無関心になるよりはマシだと思うのですが。
(相変わらずだらだらした文章になった)
お金と安全について考えてみる
これの続きです。
ヤップ島の石の貨幣は、とても価値のある貨幣です。
大きな石の貨幣ですと家一軒を買えるほどの価値があります。
にもかかわらず、野ざらしなことも当たり前です。
それどころか、船に積んで運んでいる途中に船が沈んでしまい、海の底に沈んでしまったものもあります。
それなのに、誰も勝手に持って行きません。つまり、盗まれません。
なぜでしょう?
答えは簡単で、誰が持ち主か島の誰もが知っているから。
勝手にこの石の貨幣を持って行って何かを買おうとするとしましょう。
結果は惨たるものです。誰も売ってくれません。石の貨幣の持ち主は誰なのか知っているわけですから、持ち主でない人が持ってきて貨幣を使おうとしても使えないわけです。
さらに、石の持ち主が買い物をしようとしても用途は限られます。家一軒の価値がありますから家との交換なら問題ないと思われます。あるいは、漁業に使う船との交換でも問題ないと思われます。また、命懸けで自分を助けてくれた人に対しての感謝の気持ちとしても問題ないと扱われます。
しかし、その価値はないと扱われた取引は認められません。「そんな安物との交換で石を手に入れるなど許されない」となると、取引は中止させられます。
石の貨幣を使うのに必要なのは、正当な持ち主であるという認識、そして、等価交換であるという認識です。こうなると、盗むだけでなく、不正な取引もできなくなるわけです。
さて、この石の貨幣のセキュリティに相当する仕組みは現在、真剣に検討されています。ビットコインに利用されているブロックチェーンもそうですし、前回書いたクレジット会社の手がけるデビットカードもそうです。
そのどちらも、誰が、いつ、どこで、どのような理由でいくらの取引をしたのかが全て記録される仕組みなわけですが、ここに、不正な取引を監視する仕組みを投じたらどうなるでしょう?
犯罪を激減させることができます。
また、取引に関わる監視が働いて脱税もできなくなります。
監視されるということに危惧を感じる人もいるでしょうが、代わりに安全と財政の改善を手にすることとなるのです。
これが、高額紙幣を廃止すると同時に取引を透明化するということです。
自分の金が盗まれるかもしれないという心配と、自分の金の使い道が監視されるという心配とを天秤に掛ける時代が来たということを受け入れる必要があるのかもしれません。
まだうまくまとめきれていませんが 、たぶん、この続きは別途。
将来のお金の姿について考えてみる
お金というと、紙幣だったり、あるいは硬貨を思い浮かべる。
どちらも財布から取り出してレジに出すというイメージが伴う。
ところが、現金を使うことが減ってきている。
Suicaやpasmo、あるいはWAONといった電子マネーで買い物をすることが多くなってきているし、クレジットカードでの支払いも増えてきている。
さらにはここに、デビットカードが加わった。厳密に言えばデビットカード自体は昔から存在していたのだが、クレジットカード会社と連携したデビットカードが出てきた。
デビットカードで買い物をすると、買った瞬間に口座の残高から引かれる。使えるのは銀行口座の残高分までだ。ゆえに、使いすぎることもない。実際には定期預金との総合口座の場合は、定期預金の預入額の90%、あるいは200万円を上限とした自動貸出機能もあるが、それでも預金残高以上を使い込むというわけではない。
昔から存在していたデビットカードにクレジット会社が関わることになったことでどうなったか?
こうなった。
世界中どこでも買い物ができるようになった。クレジットカードが使える店なら世界中どこでも利用可能だ。
買った瞬間に口座から引かれる。アメリカで100ドルの買い物をしたとき、1ドル111円で、手数料が100円かかったとすると、買い物をした瞬間に11200円が口座から引かれる。
クレジット会社の持つ調査機能がそのまま保険となる。不正利用をされた場合、使われた金額が戻るし、不正の疑いがあったら本人に照会が来る。
そして、銀行の預金通帳は、いつ、どんな理由で出金したかが記録されるようになった。もっとも、今のところはまだ「カイモノ」とか「テスウリョウ」とかの大雑把なもので、「さば味噌煮定食 540円 出金」とまではいかないが。
このどこにも現金は登場していない。登場しているのはデビットカードだけだ。
ただし、それでもデビットカードを取り出して使うという点は残っている。つまり、財布、あるいは財布に相当するものは必要としている。スマートフォンを読み込ませることもあるが、それでもスマートフォンをカバンなりポケットなりから取り出すというワンクッションは必要となる。
これがさらに一歩進むとどうなるだろうか?
私は、指紋や静脈認証などが支払いのキーになる時代が来るのではないかと考えている。カードを出すのではなく、手のひらをかざすだけで支払いが完了し、その瞬間に口座から引かれるという時代になると考えている。
電子マネーへのチャージではなく、支払いをするたびに商店からクレジット会社を経由して銀行に情報が送られ、銀行に金銭の支払いの詳細な記録が蓄積されていくのではないかと考えている。
利用者にとっては便利になると同時に、安全も手にすることとなる。財布を盗まれたり、電子マネーを盗まれたりという事件は残念ながら存在するし、恐喝されるという事件も存在する。だが、自分の手のひらだったらどうなるか?
買い物が監視される時代は不気味と言えば不気味だ。それに、自分のこれまでの買い物の姿が情報として第三者に蓄積されてしまうことの危惧も理解できる。
それでも考えなければならないことがある。それは、時代が既にそのように動き始めているということ。これまで通りの現金決済も、国によっては一定額以上の売買については現金決済を禁止するようになってきている。決済はクレジットや小切手など決済の記録の残る方法でしか認められなくなってきているのだ。もっとも、そこには税の補足という考えも見え隠れしているし、地下経済を干上がらせるという目的も存在しているが。
現金決済に上限を設けている国の例
- ベルギー 3,000ユーロ
- フランス 1,000ユーロ(ただし、非居住者は15,000ユーロまで可)
- スペイン 2,500ユーロ(ただし、非居住者は15,000ユーロまで可)
- ギリシャ 1,500ユーロ
- イタリア 1,000ユーロ
さらに、インドでは高額紙幣を廃止するという思い切った方法で現金決済を減らすという思い切った方法をとった。
日本でももし、これらの国のように高額紙幣を廃止し、一定額以上の取引は現金の使用を禁止するとしたらどうなるか?
このあたりのことは、後日、まとめて。