徳薙零己の備忘録

徳薙零己の思いついたことのうち、長めのコラムになりそうなことはここで

働くということについて考えてみる

働いて給料を貰うとはどういうことか?

 

あの議員について書くつもりはないと言っておきながら、あの議員の発言について考えさせられることがあったので、この記事を載せた。

 

給料を突き詰めて考えると、人生を引き受けることの対価ではないかと考えられるのだ。

 

孤島で一人きりで生活しているという人でもない限り、人は誰かの仕事をしてもらうことで人生を成立させている。自分で田畑を耕す代わりに農家の人が耕して収穫してくれたコメや農作物を買う。自分で服を作る代わりに服を作ってくれた人から服を買う。自分で家を建てる代わりに家を建ててくれた人から家を買う。無論、直接農家に支払うわけではなく、直接縫製工場に支払うわけでなく、直接建築現場で支払うわけではない。支払う相手はスーパーマーケットであったり、ショッピングモールであったり、不動産屋であったりするわけであるが、そこでの支払いは、生産者にもつながる。

田畑を耕す人は消費者の人生の一部である食を引き受けることの対価を得る。

縫製工場で働く人は消費者の人生の一部である衣を引き受けることの対価を得る。

建築現場で働く人は消費者の人生の一部である住を引き受けることの対価を得る。

スーパーマーケットで、ショッピングモールで、不動産屋で働く人もまた、食を、衣を、住を引き受けることの対価を得る。

生産から店舗に運ぶ人もまた同じだ。消費者の人生の一部を引き受け、消費者の手元に届くことを引き受けることの対価を得る。

全ての働く人は、何かしらの形で誰かの人生に関わり、誰かの人生を引き受け、その他以下を引き受ける。それは人生を引き受けることの責任に対する対価であるとしてもいい。

 

もし、人生を引き受けることの責任をとれないというのであれば、それは給与を受け取る資格を持たないということである。

もし、引き受けている人生の量に比べて受け取る給与が少ないというのであれば、それは支払う側が自らの人生の重さを認識していいないということである。

もし、人生を託すことを、そして、人生を引き受けることを拒否するのであれば、それは、この社会における自らの存在を喪失することを意味する。

 

働くということは、人生を引き受ける責任と、それに見合う対価との交換である。責任だけは許されない。対価だけも許されない。責任と対価の交換、それが、働くということである。

炎上商法について考えてみる

炎上商法はビジネスとして有効なのか?

単に敵を増やすだけではないのか?

 

結論から記すと、有効である。

 

どういうことか?

 

ビジネスの基礎は顧客を創り出し顧客を維持することである。

仮に99%を敵に回すこととなっても、確実に計算できる1%を顧客として創出し維持することに成功すれば、ビジネスとしては有効である。

 

スマートフォンを操作しているときに不意に広告に触れてしまい、広告先のサイトに飛んで行ってしまった、あるいはアプリのダウンロードサイトに飛ばされてしまったという経験のある人はいるだろう。

これを多くの人が不満に感じる。

そして、こう考える。

「何でこんなことをするのか」

と。

 

広告先のサイトに飛ばしたり、アプリのダウンロードサイトに飛ばしたりする仕組みを作った企業、そして、そのサイト先の企業に対して不満を持つ人は多い。企業には不満の声も寄せられる。しかし、企業はその不満に対して応えることはしない。

なぜか?

その企業にとって、99%の不満はどうでもいいことなのだ。広告先のサイトに飛んでしまった、アプリのダウンロードサイトに飛んでいってしまった人のうち、1%が反応して、その企業にお金を落とすのであれば、企業倫理として許されるかどうかはともかく、企業のビジネスモデルとして無くはない。

どんな卑怯な手段であろうと、それが悪評に由来するものであろうと、99%の不満を捨てた上で1%の顧客を獲得できれば、そして、その1%の人がお金を落としてくれるなら、企業としてはそれでいいのである。それが企業倫理として許されないことであるという批判も、その企業の耳には入らない。

 

もっとも、純然たるビジネスの世界で炎上商法は通じないようになっている。

 

少し前、CSR(企業の社会的責任)という言葉が叫ばれていた。

現在、ESG(環境、社会、企業統治)という言葉が叫ばれるようになってきている。

そして、ESGでの企業統治には99%の意見を無視しないという点も含まれる。

炎上商法により迷惑を被る99%の人の声を無視することが許されなくなってきているのが現在の企業に対して向けられている。

 

ところが、ビジネスの世界には存在する自浄作用が働かない炎上商法が通用する世界が存在するのだ。

それは、政治の世界。

 

多くの人が実感するであろうが、選挙カーや街頭演説は単なる騒音でしかなく、あれを聴いてその人に投票しようという気は起こらない。しかし、選挙の当選という一点だけを考えれば選挙カーも街頭演説も有効である。99%の不満を集める行動をしても1%の支持を確実にできれば当選は可能なのだ。

 

仮に人口10万人の市があり市議会議員選挙に立候補すると仮定してみよう。選挙カーや街頭演説で10万人のうち9万9000人がその立候補者に不満を持ったとしても、残る1%、1000人の支持を集めることができれば、市議として,トップ当選はともかく当選券に食い込むことはできる。無論、1000人の全員が有権者であるとは限らないから1000票の得票が期待できるわけではないが、それでも半分が投票したとして500票あれば、人口10万の都市で市議として当選することは不可能ではない。

実際、およそ人口10万人の大阪府泉佐野市の市議会議員選挙で、464票の得票で当選した市議がいる。あくまでも数字上は、市民の99%の不満を集めていたとしても、市議になれるわけである。

※この市議が市民の99%から不満を集めているというわけではなく、あくまでも数字上はそうだと言っているだけです。

 

現在の選挙の仕組みは問題が多々あるが、その問題の一つに、99%の不支持を反映させる手段がないことが挙げられる。有権者の99%が我々の代表として相応しくないと言っているのに、残る1%の得票があるために99%の意見が無視されることが、現在の選挙の仕組みとして存在している。

 

この炎上商法を利用した政治家がいる。

と言っても、現在進行形で騒がれているあの女性代議士のことではなく、こいつ。 

わが闘争(上下・続 3冊合本版) (角川文庫)

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よく、ナチスは民主主義によって成立した政権だという言われ方をするが、政党としてのナチスの支持率は決して高いものではなかった。

ナチス国家社会主義ドイツ労働者党)が政権を握るまでの5回の選挙での主な政党の得票率と獲得議席数をまとめると下記の表の通りとなる。

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ここで注目していただきたいのが、当初は泡沫政党であったこと。それが、得票率20%を越え、30%を越え、40%を越えるまでに成長した。

成長したが、50%は越えていない。当時のドイツ人はナチスを熱狂的に迎え入れたわけではなく、得票率過半数を許すことがなかったのである。

普通に考えれば過半数の支持を集めているわけではないのだから政権をとるなど出来ないはずである。さらに言えば、当時のドイツ人はナチスに対する反感を持っていた。過半数のドイツ人が反感を抱いていたのである。だが、当時のドイツには、その過半数の反感の声を国政に反映する仕組みが存在しなかった。

このときのドイツは単純な比例代表制である。ナチスに反発を見せたとしても、ナチス議席を獲得することを妨げる仕組みがなかったのだ。ナチスが泡沫政党であった頃、それこそ、得票率が3%似満たない政党であった頃は98%のドイツ人がナチスに反感を抱いていたが、その98%の意思を無視して議会に議員を送り込むことができる仕組みになっていたのだ。

ナチスはそれを利用した。

どんなに批判を集めようとそれを無視し、過激な主張を繰り返し、炎上商法で注目を集め、自分たちへの支持をする人を増やして選挙に挑み、選挙を重ねることで政権を掴み取ることに成功したのである。

歴史にIFは厳禁ということになっているが、仮に当時のドイツに、過激な主張をして、それこそ炎上商法で着目を浴びるような泡沫政党に対し、炎上商法にNOを突きつける多数の声を反映させる仕組みがあったならば、ナチスは迷惑な泡沫政党として名を残しただけで自然消滅し、あのような悲劇は生まれなかったであろう。

 

現在のドイツは、得票率5%を基準として泡沫政党を切り捨てる仕組みが出来ている。それが完璧というわけではないが、少なくとも99%の否定の声を無視するような仕組みではない。炎上商法であろうと着目を集めて限られた支持を獲得することで権力を掴むという仕組みを許さないようになっている。

だが、今の日本の選挙制度は、一人のみが当選する選挙を除き、過激な主張を繰り返す泡沫を切り捨てる仕組みが存在しない。それこそ、99%の不満を集めていても、99%の不満の声が政治に反映されるようにはなっていないのである。

 

では、99%の不満の声を政治に反映させる方法はないのか?

ある。それもいくつか。

たとえばアメリカやイギリスでしているような小選挙区制は一つの手段であるが、私はここで、中世のヴェネツィア共和国で実践していたマイナス票制度を提唱したい。

 

選挙権を持つ人は、代表に相応しい人にプラス1票入れるか、代表に相応しくない人にマイナス1票を入れるかのどちらかを選べるのである。その上で、プラス票がマイナス票より多かった人、つまり、代表に相応しいと考えた人より相応しくないと考えた人のほうが多い候補者は、どれだけ得票を得ていたとしても落選決定。その上で、残った人のうちプラス票の多い人から当選者が決まっていくという仕組みである。

 

意見の多様性は認めるべきである。だが、大多数の人が否定しているという意見を無視するようでは意見の多様性とは言えない。

評判管理について考えてみる

評判について考えさせられる二冊の本がある。

 

一冊は、ダニエル・ディアマイアー氏の著書『「評判」はマネジメントせよ』(阪急コミュニケーション,2011)

「評判」はマネジメントせよ 企業の浮沈を左右するレピュテーション戦略

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  • 作者: ダニエル・ディアマイアー,Daniel Diermeier,フィリップ・コトラー,Philip Kotler,斉藤裕一
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もう一冊は、ジェイン・メイヤー氏の著書「ダーク・マネー」(東洋経済新報社,2017)

 

ダーク・マネー

ダーク・マネー

 

 

前者は企業がどのような悪評を受け、どのように対応したことで悪評を押さえ込むことに成功したか(あるいは失敗したか)が記されているのに対し、後者には悪評がどのようなメカニズムで生まれるのかが記されている。それも、後者の生み出される悪評は、悪評に成長してしまった評判ではなく、当初から悪評となるべく創出された悪評である。

前者は、環境や人命に関わる評判であったり、あるいは差別問題に関わる評判であったりしたのが悪評へと発展して企業や個人に大打撃を与えることとなったが、後者は情報を不充分に吟味することで最初から意図して悪評となるべく評判を生みだしている。両者ともに嘘を言っているわけではない。ただ、前者は真実なのに対し、後者は真実の重要な部分を隠して悪評を生み出すのに必要な情報だけを残し、解釈をねじ曲げ、いかに悪評が生み出している。

 

企業であったり、個人であったり、このような悪評が自分に向けられたとき、対処方法は三つある。

一つは、悪評の根拠になっている証拠を受け入れ、適切な対応を取ること。真摯な対応を見せることで評判を取り戻すケースは意外と多い。悪評の根拠を示している人に直接会い、その悪評が事実であると認め、誰もが見ている場でそれまでの責任と今後の対応を示すというのは、一時的に大きなダメージを受けることとなるが、長期的には信頼の回復につながる。

さらに言えば、責任を示し、反省を示し、対応策を示していてもなお悪評を繰り返している人のほうが今度は悪評を受ける立場となる。

 

しかし、それが必ずしも正しい対応であるとは言えない。特に、悪評のほうが間違っている、少なくとも真実ではない評判であるというとき、その評判に従う義務はないし、信頼の回復を取り戻したとしても、悪評の根拠のほうが間違っているときに悪評に従っていてはむしろマイナスになる。

悪評を否定する客観的証拠を示すこと。特に後者のケースで見られる情報の不充分さに対し、全ての情報を公開することによって悪評そのものが間違った解釈であるという評判を生み出すことは、評判管理としてきわめて有効である。(そして、意図した悪評を生みだした者にとっては致命的な打撃となる)

とは言え、前者のような悪評の場合、それは難しいのは事実である。『環境に問題がある』『明らかな差別が見られる』『人命にかかわる話である』という証拠を伴った悪評に対するのに必要なのは『環境に問題なし』『差別には該当しない』『人命への影響は皆無である』という証拠を示さねばならないのである。これは難しいが、成功した場合の効果は極めて高い。何の問題も無いことが示されたとき、悪評を生みだした、そして、悪評をぶつけていた側は、為していた攻撃を上回る攻撃を受けることとなる。

 

そして、対処方法のもう一つが、沈静化するのを待つ。

人の噂も75日とは言うが、実際にはもっと早い段階で悪評は小さくなる。しかし、小さくなるのであって消えるのではない。悪評の火はくすぶり続けるし、忘れ去られることのなかった悪評は簡単に蘇り、再び攻撃を、それも以前より激しい攻撃を示すようになる。

さらに言えば、悪評で傷ついた信頼は元に戻らない。悪評をそのままにしていたとしても、元の信頼を取り戻すことはない。転落のスピードを遅らせることができるだけである。

それでも元の信頼を取り戻せないにしても、完全に転落しきるわけではないのだ。そして、絶頂期を取り戻すとまでは言わないにせよ、底辺からの再起は不可能ではなくなる。

 

悪評を受けたときに絶対にやってはいけないのが、悪評を向けている人間に対して感情的に対応すること。悪評を向けている人間は決して支持を集めることがないが、悪評に感情を持って対応している人間もまた支持を集めることはない。

 

人は本質的に、誰かの悪口を言う人間を好ましく思わない。

悪評というのは悪口を言われることである。その悪口を言う人に対して、感情的な悪口で相手にするというのは、好ましからざる人物に自分自身を堕してしまうことを意味する。

悪評が発生したときに為すべきことは、悪評をぶつけている人間よりも上位に立つことである。悪評をぶつけている人物のほうを非難されるべき対象とさせるようにするのは、評判管理という点でわりと有効な手段である。

上西小百合の暴言について考えてみる

7月15日(土)に埼玉スタジアムで開催された浦和レッドダイヤモンズvsボルシア・ドルトムントの試合後に、衆議院議員上西小百合Twitterに書き込んだ内容が波紋を呼んでいる。

90分間真剣に戦った選手達に対する敬意の欠片もないこの発言に対する反発は強く、数多くの批判が寄せられているが、これに対し、上西小百合は謝罪も反省も見せることなくこのような反応を示している。

批判の多くは当然ながら浦和レッドダイヤモンズのサポーターからのものであるが、それに対する上西小百合の対応は、当初はこう。

 次に、街頭演説を浦和で実施するという話になり

 

となった。

上西小百合は当初、浦和レッドダイヤモンズのサポーターだけが批判を向けているのだと考えていたようであるが、選手たちに対する敬意の無さについては、浦和レッドダイヤモンズという一つのサッカークラブに留まらず、サッカー選手、そして、サッカーを愛する全ての人に対する批判を招くこととなった。 

そして、この暴言へと繋がる。

 

今後どのような動きを見せるのか。普通に考えれば「明日以降の動きに興味のあるところである」と締めくくるところであるが、実は全く興味が無い。より正確に言えば、上西小百合に何の興味を持てないし、上西小百合などどうでもいい。

明日以降何かあるかもしれないが、それにつきあうつもりは毛頭無い。

文明と格差について考えてみる

そもそも文明社会とは何でしょうか?

 

ラグジュアリー戦略―真のラグジュアリーブランドをいかに構築しマネジメントするか

ラグジュアリー戦略―真のラグジュアリーブランドをいかに構築しマネジメントするか

 

 

ジャン=ノエル・カプフェレ、ヴァンサン・バスティアン両氏の共著、「ラグジュアリー戦略~真のラグジュアリーブランドをいかに構築しマネジメントするか~」はラグジュアリーブランドの構築について記した本ですが、その冒頭に文明についての定義について考えさせられることがありました。

 

ラグジュアリーの起源は死者を埋葬しはじめたときから始まる。

 

その上で、ラグジュアリーは文明社会には必ず存在するものだと述べているのです。

本はそのあとでラグジュアリービジネスの構築と事例を述べているのですが、私はこの本を読んでいる間、冒頭にあった文明の定義がどうしても脳裏から離れなかったのです。

ラグジュアリーを人が人として生きるために発生するものであると定義しているところをそのまま「文明」と置き換えることもできるのではないかと考えたのです。

 

文明の定義を「人の命に関心を持つ」と定義したらどうでしょうか?

 

命に関心を無くした社会を創造してみてください。戦争であるとか、革命であるとか、あるいは大規模自然災害であるとか、たくさんの人が命を落としている場面を迎えると人間はどうなるかを。

そこに文明を感じることができるでしょうか?

 

「自分は人の命を大切にしている」と信じて疑わない人もいるでしょうが、目に入らないところで失われている命にも関心を持つでしょうか? あるいは、自分が敵と考えている人に対する命に関心を持つでしょうか? 誰かに対して「死ね」と言ったり、さらには死を娯楽素材としたりしていませんでしょうか?

そこに文明を感じることができるでしょうか?

 

文明の定義を人の命に関心を持つとした場合、文明崩壊は人の命に無関心になることと定義することができます。先に挙げた、戦争、革命、大規模自然災害は、人の命に無関心になるがゆえに文明崩壊と定義できるのです。

と同時に、この文明崩壊の定義はそのまま、皮肉と言うべきか、トマ・ピケティの「21世紀の資本」にあった格差解消の三つの起因にもなります。裏を返せば、文明社会を作り上げていることがまさに格差を生み出す要因であり、文明社会が進展すればするほど格差が広がるというパラドクスがあるのです。

しかも、格差の広がりがまさに人の命に関心を持たせなくなる土壌を生み出すのです。過労死するまで働かされたり、人権が奪われた暮らしをさせられたりする人たちがいて文明社会が成立してしまい、そこに人の命に対する関心の欠落を伴っているのです。聞いてみてください。「今まさに困っている人を助けるべき」という質問に対する答えはYESですが、「自分の生活が不便になったり値上がりしたりするのを受け入れますか」という質問に対する答えはNOであるはずです。文明社会と考える暮らしに生きる人が文明社会を維持するために人の命に無関心になり、文明社会を壊しにかかるというパラドクスもあるのです。

これは大問題であると多くの人は考えるはずです。そして、格差を無くすべきだ、と。

21世紀の資本

21世紀の資本

 

ところが、格差解消を訴える人たちは往々にして物騒です。言うなれば、非文明人的な行動です。攻撃的で、血が流れても関心を見せず、自分の正義と考えることならば命が失われても関心を示さないという物騒さに恐怖心を抱く人は多いでしょう。私もそうです。そして、「なぜこんな物騒なことができるのか」とも考えるのです。

ですが、格差を縮めるために選ばなければならないのが文明崩壊であるならば、その物騒な行動も、納得はできなくても理解はできるのです。大規模自然災害は人間の手でどうこうなるようなものではありませんが、残る二つ、戦争と革命は人間の手で生み出すことができます。人間の手で生み出す文明崩壊が革命と戦争というものです。

格差解消という崇高な目標のために文明を破壊するか、成熟ゆえに文明衰退を受け入れるか。それしか選択肢はないのでしょうか? 他に選択肢はないのでしょうか?

 

あります。

文明社会の成熟を認めなければいいのです。

まだまだ成熟の余地があると考え、成長の余地があると考え、成長を続けるのです。

ここで冒頭にあったラグジュアリーに戻りますが、成長が続くことは、成長を捨てた人にとって手に入れたラグジュアリーの地位を失うことを意味します。激しい抵抗となるでしょうし、実際になっています。

それでも、文明社会の崩壊や破壊を招いて人の命に無関心になるよりはマシだと思うのですが。

 

(相変わらずだらだらした文章になった)

お金と安全について考えてみる

これの続きです。

tokunagi-reiki.hatenablog.com

 

ヤップ島の石の貨幣は、とても価値のある貨幣です。

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大きな石の貨幣ですと家一軒を買えるほどの価値があります。

にもかかわらず、野ざらしなことも当たり前です。

それどころか、船に積んで運んでいる途中に船が沈んでしまい、海の底に沈んでしまったものもあります。

 

それなのに、誰も勝手に持って行きません。つまり、盗まれません。

なぜでしょう?

 

答えは簡単で、誰が持ち主か島の誰もが知っているから。

 

勝手にこの石の貨幣を持って行って何かを買おうとするとしましょう。

結果は惨たるものです。誰も売ってくれません。石の貨幣の持ち主は誰なのか知っているわけですから、持ち主でない人が持ってきて貨幣を使おうとしても使えないわけです。

 

さらに、石の持ち主が買い物をしようとしても用途は限られます。家一軒の価値がありますから家との交換なら問題ないと思われます。あるいは、漁業に使う船との交換でも問題ないと思われます。また、命懸けで自分を助けてくれた人に対しての感謝の気持ちとしても問題ないと扱われます。

しかし、その価値はないと扱われた取引は認められません。「そんな安物との交換で石を手に入れるなど許されない」となると、取引は中止させられます。

 

石の貨幣を使うのに必要なのは、正当な持ち主であるという認識、そして、等価交換であるという認識です。こうなると、盗むだけでなく、不正な取引もできなくなるわけです。

 

 

さて、この石の貨幣のセキュリティに相当する仕組みは現在、真剣に検討されています。ビットコインに利用されているブロックチェーンもそうですし、前回書いたクレジット会社の手がけるデビットカードもそうです。

そのどちらも、誰が、いつ、どこで、どのような理由でいくらの取引をしたのかが全て記録される仕組みなわけですが、ここに、不正な取引を監視する仕組みを投じたらどうなるでしょう?

犯罪を激減させることができます。

また、取引に関わる監視が働いて脱税もできなくなります。

監視されるということに危惧を感じる人もいるでしょうが、代わりに安全と財政の改善を手にすることとなるのです。

 

これが、高額紙幣を廃止すると同時に取引を透明化するということです。

自分の金が盗まれるかもしれないという心配と、自分の金の使い道が監視されるという心配とを天秤に掛ける時代が来たということを受け入れる必要があるのかもしれません。

 

まだうまくまとめきれていませんが 、たぶん、この続きは別途。

 

現金の呪い――紙幣をいつ廃止するか?

現金の呪い――紙幣をいつ廃止するか?

 

 

将来のお金の姿について考えてみる

お金というと、紙幣だったり、あるいは硬貨を思い浮かべる。

どちらも財布から取り出してレジに出すというイメージが伴う。

 

ところが、現金を使うことが減ってきている。

Suicapasmo、あるいはWAONといった電子マネーで買い物をすることが多くなってきているし、クレジットカードでの支払いも増えてきている。

さらにはここに、デビットカードが加わった。厳密に言えばデビットカード自体は昔から存在していたのだが、クレジットカード会社と連携したデビットカードが出てきた。

デビットカードで買い物をすると、買った瞬間に口座の残高から引かれる。使えるのは銀行口座の残高分までだ。ゆえに、使いすぎることもない。実際には定期預金との総合口座の場合は、定期預金の預入額の90%、あるいは200万円を上限とした自動貸出機能もあるが、それでも預金残高以上を使い込むというわけではない。

 

昔から存在していたデビットカードにクレジット会社が関わることになったことでどうなったか?

こうなった。

 

世界中どこでも買い物ができるようになった。クレジットカードが使える店なら世界中どこでも利用可能だ。

 

買った瞬間に口座から引かれる。アメリカで100ドルの買い物をしたとき、1ドル111円で、手数料が100円かかったとすると、買い物をした瞬間に11200円が口座から引かれる。

 

クレジット会社の持つ調査機能がそのまま保険となる。不正利用をされた場合、使われた金額が戻るし、不正の疑いがあったら本人に照会が来る。

 

そして、銀行の預金通帳は、いつ、どんな理由で出金したかが記録されるようになった。もっとも、今のところはまだ「カイモノ」とか「テスウリョウ」とかの大雑把なもので、「さば味噌煮定食 540円 出金」とまではいかないが。

 

このどこにも現金は登場していない。登場しているのはデビットカードだけだ。

ただし、それでもデビットカードを取り出して使うという点は残っている。つまり、財布、あるいは財布に相当するものは必要としている。スマートフォンを読み込ませることもあるが、それでもスマートフォンをカバンなりポケットなりから取り出すというワンクッションは必要となる。

 

これがさらに一歩進むとどうなるだろうか?

 

私は、指紋や静脈認証などが支払いのキーになる時代が来るのではないかと考えている。カードを出すのではなく、手のひらをかざすだけで支払いが完了し、その瞬間に口座から引かれるという時代になると考えている。

電子マネーへのチャージではなく、支払いをするたびに商店からクレジット会社を経由して銀行に情報が送られ、銀行に金銭の支払いの詳細な記録が蓄積されていくのではないかと考えている。

 

利用者にとっては便利になると同時に、安全も手にすることとなる。財布を盗まれたり、電子マネーを盗まれたりという事件は残念ながら存在するし、恐喝されるという事件も存在する。だが、自分の手のひらだったらどうなるか?

買い物が監視される時代は不気味と言えば不気味だ。それに、自分のこれまでの買い物の姿が情報として第三者に蓄積されてしまうことの危惧も理解できる。

それでも考えなければならないことがある。それは、時代が既にそのように動き始めているということ。これまで通りの現金決済も、国によっては一定額以上の売買については現金決済を禁止するようになってきている。決済はクレジットや小切手など決済の記録の残る方法でしか認められなくなってきているのだ。もっとも、そこには税の補足という考えも見え隠れしているし、地下経済を干上がらせるという目的も存在しているが。

 

現金決済に上限を設けている国の例

  • ベルギー 3,000ユーロ
  • フランス 1,000ユーロ(ただし、非居住者は15,000ユーロまで可)
  • スペイン 2,500ユーロ(ただし、非居住者は15,000ユーロまで可)
  • ギリシャ 1,500ユーロ
  • イタリア 1,000ユーロ

さらに、インドでは高額紙幣を廃止するという思い切った方法で現金決済を減らすという思い切った方法をとった。

日本でももし、これらの国のように高額紙幣を廃止し、一定額以上の取引は現金の使用を禁止するとしたらどうなるか?

このあたりのことは、後日、まとめて。

 

現金の呪い――紙幣をいつ廃止するか?

現金の呪い――紙幣をいつ廃止するか?