徳薙零己の備忘録

徳薙零己の思いついたことのうち、長めのコラムになりそうなことはここで

Google+にむかし書いたこと

経営者はコンサルタントに問い合わせました。
その答えは、やる気の無い社員が不要であり、やる気のある社員のみを残すべきとの指摘でした。

経営者は従業員のやる気を促すことを考えて実践しました。

その企業では、その仕事は今まで2人でしていました。8時間の2倍ですから合計16時間です。

その2人のうちの1人が8時間でかかる仕事を5時間で終えるようになりました。経営者は考えました。5時間でできる人だけを残せば2人分の人件費が、1人分の基本給+残業代だけで済むんじゃないかと。

結果、会社でその仕事ができる人は1人だけになりました。
もう1人はやる気の無い社員と扱われクビになり他の会社に行ったようです。
残った1人は毎日2時間の残業をして2人分の仕事をするようになりました。

残った1人は毎日々々2時間の残業をしました。
1人で2人分の仕事をしています。
いくら1人分の仕事を5時間でできると言っても、本来2人が必要な仕事量を1人でこなしています。

最初は素晴らしいと思っていた周囲の人も、次第に当たり前だと思うようになってきました。
残った人は言いました。「つらいです。人手を増やしてください」と。
企業は「今まで1人でできているじゃないか」と言って無視しました。
残った人はだんだんと意欲を失っていきました。2時間の残業が3時間になり、4時間になりました。

周囲の人は言いました。「どうして終わらないんだ」と。

企業は言いました。「やる気が無いのか」と。

残った人は、2人分の仕事をする人という高評価から、どんなに残業しても自分の仕事を終えることのできない無能な人という低評価になりました。

残った人は追い詰められていきました。

話しかけても虚ろな表情のままです。

受け答えもできません。

仕事のミスも増えてきました。

ミスが多いからという理由で評価はみるみる下がっていきました。

経営者は考えました。
ミスが多く、評価も低い社員を辞めさせるべきだと。
このままでは他の人のモチベーションも下がると。

経営者はその社員を「モンスター社員」として扱い、辞めさせるよう仕向けました。

企業の目論見は成功しました。その人は鬱による退職を選びました。

企業は見落としていました。
会社でその仕事ができる人は1人だけになっていたことを。
それも、本当は2人が必要な仕事を1人でこなしていたことを。

「あれ? あいつがいなくなったら、誰がこの仕事をやるんだ?」と気付いたときにはもう手遅れでした。
誰もその仕事ができません。

その仕事ができる人を探してもダメでした。
「あの会社は2人かかる仕事を1人に押しつける会社だ」という評判ができあがっていました。

その会社で働きたいなんて考える人はいなくなっていました。
他の社員も、「そういえば2人でやってた仕事を1人でやっていたんだ」と思い出しました。
やる気の無い無能な社員ではなく、意欲あふれる優秀な社員だったんだと思い出しました。
優秀な社員をこき使って、最期は無能扱いして追い出した会社です。
次は自分かも知れません。
このままこの会社で働いていて、未来はあるだろうかと考えた社員はどちらかを選ぶようになりました。
ボロボロになって辞めさせられる前に自ら会社を去るか、やる気を見せずに会社に残って日常を惰性で過ごすかのどちらかです。

経営者は言いました。
やる気を見せろと。
社員の耳には届きません。
やる気ある社員はもう辞めたのですから。

経営者の前に突きつけられたのは、次々と社員が減っているという現実、そして、このままでは会社が潰れるという数字です。
売上も、利益も、伸びないどころか目に見えて減り続けています。

どうしてこうなってしまったのか経営者は振り返りました。スタートはコンサルタントからの指摘でした。

「モンスター社員の解雇方法」

と呼ばれるそれを実践してから狂いだしたと気付いたとき、企業に残されていた選択肢は唯一、倒産だけでした。

-完-

ACL決勝を振り返ってみた

2017年11月25日、浦和レッズは10年ぶり2度目のAFCチャンピオンズリーグ(以下「ACL」)優勝クラブとなった。

ACL優勝は10年前に経験しているとは言え、2017年11月25日のACL勝戦はそれまでに体験したどの試合とも違う特別なものだった。

ここで備忘録的に、ACL決勝はどのような光景であったのかを思い出しつつ書いてみる。

 

何が特別だったのか

どんな大会であれ、決勝戦というのは特別な試合だ。ルヴァンカップ(かつてのヤマザキナビスコカップ)の決勝戦も、天皇杯の決勝戦も、勝てば優勝という特別な事情があり、ただの試合ではない特別な試合とさせている。

それらの決勝戦ACLの決勝戦との違いは、主催がアジアサッカー連盟AFC)であるということ。ACLは、準決勝までは各クラブが試合を主催し、選手紹介も場内アナウンスもいつもの通りであるが、決勝戦だけはACL決勝だけでしか体験できない特別なものとなる。 これはルヴァンカップ天皇杯の決勝でも同じ。

<準決勝の選手紹介>

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<決勝戦の選手紹介>

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試合前にピッチレベルで行われるイベントもACL決勝の特別なものとなる。

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場内アナウンスは基本的に英語。

トロフィーを場内に運び込むのはその国の伝説的なフットボールプレイヤーで、2017年のACL決勝第2戦の場合はカズこと三浦知良氏がその役割を果たした。

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ちなみに、サウジアラビアで開催されたACL決勝第1戦では、21年間の現役生活をアルヒラル一筋で過ごし、350試合に出場して183得点、サウジアラビア代表として81試合に出場して20得点という、アルヒラルの英雄ユセフ・アル・トゥナヤン氏がつとめた。

 

サポーター

AFC主催ということでもACL決勝は試合そのものが特別であるが、試合前のサポーターの意気込みもまた特別になる。

まず、入場券が手に入らない。販売開始初日に売りきれるというだけならまだいい。販売開始から数秒で売り切れるのである。もっとも、その後で待っているのは転売。定価の倍ですら安値というのが転売屋のつけた相場である。ただし、転売屋はバカだが、サポーターはバカではない。転売屋の手に流れた入場券は取引が成立せずに終わった。

無事に入場券を手に入れたサポーターは、スタジアムまでの見慣れた道が今までと違うことに気づかされる。

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 入場した後で待っているのは、これまでに感じたことのない圧迫感。

寒くなってきているので着込む量が多く、同じ人数であっても密度が詰まっているように感じるというのもあるが、スタジアム全体の雰囲気そのものが決勝のプレッシャーから重苦しくなっている。猛烈なストレスを感じるだけでなく、息苦しさも感じる。

 

各人の座席にはビニールが置かれている。これで「ああ、今日はビジュアル(=コレオグラフィー)をやるんだな」という感情を抱く。この時点で自分たちが生み出すビジュアルがどのようなものになるのかを知る者は少ない。おそらく、全体で100名もいないであろう。ちなみに、これは浦和レッズだけかもしれないが、クラブ関係者はビジュアルをやることは知っていてもどのようなビジュアルであるかは知らない。そもそも、クラブ関係者はビジュアルにまったく関与せず、全てサポーター有志のボランティアである。

どのようなビジュアルになるのかを知らないまま、タイミングが来たらビニールを掲げる。事前練習無しの5万人のぶっつけ本番である。前述の通りクラブ関係者がビジュアルに関与していないので、ビニールを掲げるタイミングが場内アナウンスで流れることもなければ、クラブの公式SNSアカウントで呼びかけるということもない。どのタイミングで掲げるかもサポーター有志のボランティアの呼びかけである。

その呼びかけの結果、このようなビジュアルができあがる。が、掲げている本人はどのようなビジュアルになっているのか知らない。知るのはスタジアム内のビジョンに映し出されてからである。

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繰り返すが、ACL決勝の主催はAFCである。

試合進行もAFCであり、試合開始もAFC主催のためなのかこうなる。

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試合 

試合が始まったら、そこから先は浦和レッズのいつもの試合である。選手はもちろんいつものサッカーという姿勢であろうとしたであろうが、観ている側にとっても、浦和のユニフォームを着た選手が浦和のサッカーをしているという点で普段と違いは無い。

ただし、二点の違いがある。

一つはサポーターの声援。人数が多いので声援も多くなる。

もう一つは、試合中も消えることのない圧迫感。観ているだけでも激しいプレッシャーに潰されてしまうように感じる。選手が、ではなく、観客が、である。自分でも激しい動悸に襲われ、息苦しさを感じる。

なお、入場者数が多いことから想像できていたとおり、ハーフタイム時のトイレの行列や売店の混雑はいつも以上であったが、入場者数の多さ自体は何度か経験しているので特に驚きはない。

 

そのとき

前半を0対0で折り返し、後半も膠着した状態が続いていたが、観客席には何かが起こりそうな雰囲気が漂っていた。

その何かが起こったのは、87分(後半43分)。決勝点となる得点が生まれたとき、スタジアムが揺れた。テレビで観ているだけでは感じないであろう揺れが、スタジアムに詰めかけていた全ての人に襲いかかった。

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試合終了の瞬間の歓喜は、どの優勝でも同じである。違うのは試合後のセレモニーが英語であるということぐらい。

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終わりに

2018年シーズン、浦和レッズACLに臨むことはできない。ACLに出場できるのはJ1で3位以内に入ったクラブ、そして、天皇杯で優勝したクラブだけである。浦和レッズはそのどちらでもない。

2018年シーズンのACLに日本を代表して臨むこととなる川崎フロンターレ鹿島アントラーズセレッソ大阪柏レイソルの四クラブのどこかが、ACL決勝の雰囲気を再現することになると信じている。ACLのトロフィーが日本にあり続け、浦和レッズが果たせなかった国外でのクラブワールドカップ準決勝進出を達成してくれると信じている。

腰痛について考えてみた

何度かネタにしているが、慢性的に腰痛を抱えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

ameblo.jp

Twitterやブログでは笑いベースで書いてはいるが実際にはかなりつらいわけで、今日のこのタイミングもやはり腰痛に苦しんでいる。

この痛み、整形外科に行っても鎮痛成分のある湿布が処方されるだけで、速効治療というわけにはいかない。腰痛の症状について調べると内臓が原因とするものも散見されるが、それについても今のところ異常は見られない。現在の痛みの理由は筋肉に由来し、痛みを一瞬にして解消する方法など無い。時間を掛けてゆっくりと治していくしかないのである。

もし、私の今日の動きにぎこちなさが見られるとしたら、それは腰が原因である。

我慢と責任について考えてみた

今の住まいに引っ越す前、近所に頻繁に通っていた店があった。

およそ10年ぶりにその店に行ったら閉店していた。

不況のせいかと思っていたが、聞いたところそうではなかった。繁盛はしていたし、売上だって申し分なかったらしい。欠かせない店として近所では認識されていて、私が引っ越してからもリストラどころかむしろ人を募集するほどで、常に数十人の方々を雇っていたという。

その店が、突然に潰れた。

そして、その理由は店長にあった。

 

何があったのか?

店長が倒れた。

店長は以前から腰が痛いと言っていたようだが、腰痛などたいしたことないと考えて何事も無かったかのように出勤し店に立ち続けていた。それが失敗だった。

早い段階で病院に行けば治ったかもしれない。しかし、店長が病院に運ばれたときにはもう手遅れであった。どのような症状なのかは聞くことができなかったが、二度の全身麻酔手術を含む半年間の入院、そして、退院後も永遠に車椅子での生活というものは聞くことができた。

店長が入院していた半年、当初は残された人たちで、少ししてからは本社から別の店長が来て店の建て直しを図ったようであったが、その店は店長一人が支えているような店であった。その支えていた一人が居なくなった店がどのような運命を迎えたか? 結論だけを言うと閉店であるが、そこに至るまでは、混乱、混迷、生き残るための人員削減、残された者の絶望的というしかない奮闘(あるいは無駄な抵抗)が続いていた。

店の顧客も、店長がいなくなったことで以前のような店でなくなってしまっていたことを知り、店長が戻ってくるまでを見届けようとしていたようであるが、日に日に衰えていく店に耐えることはできなかった。

誰の目にも見える衰退を目の当たりにし、店は潰れた。

店で働いていた数十人がが迎えたのは、失業だった。それも、苦労に苦労を重ねた末に迎えた失業だった。

店の顧客が迎えたのは、店が無くなった生活だった。その店の便利さに慣れ親しんでいたところで迎えた突然の店の喪失だった。

この全てが、店長一人が倒れたことによって生じた出来事であった。

 

店長は無責任だったのか?

自分一人がいなくなったことで、多くの人の暮らしを不便にさせ、数十人を失業させた。この点だけを捉えれば店長は無責任だと言えてしまう。

しかし、店長は不真面目であったとは誰も言わない。常に店で働いていたことは近所の人であれば誰もが知っていることであったし、かつての従業員の誰もが自分たちに真剣に向かい合ってくれている頼れる上司と考えていた。誰よりも早く出勤し、誰よりも店に残っていた。ほとんど休むことなく働き続けていたと誰もが口を揃えた。

店長について責めるところがあるとすれば、腰痛を我慢して放置し続けていたことが挙げられる。それでも、店長が腰痛を放置せざるを得なくなっていた事情は誰もが理解している。何しろ店長無しで店が回らないのだ。店の誰もがそう思っていたし、他ならぬ店長自身もそのように自覚していた。

店長が腰痛を我慢していたことを見て、多くの人が真面目で責任感の強い人と感じたであろうし、店長自身もそのように思っていた。それが最低最悪の結果をもたらしたと知らずに。

 

店長は無責任だった!

自分一人がいなくなっただけで回らなくなる店を構築し、店の維持のために我慢を重ねなければならないという状況を作り上げたのは、無責任とするしかないのである。店長は数十人の雇用を守るべき立場であり、店が近所から欠かせない存在になっている。

自分が居なければ店が成り立たないというのは、自分が頼られているという実感を得ることならばできても、自分がいないと成り立たないという環境に安住し、自分がいなくても成り立つ環境を作り上げないのは無責任とするしかないのだ。

自分がいなくても成り立つような環境を作り上げるのは一朝一夕で出来ることではないが、腰痛を放置せずに病院に行って早期に治療することはすぐにできる話だ。それを我慢して放置していたことは無責任とするしかない。店長は言うであろう。たいしたことないと思っていたと。しかし、結果は既に判明している。自身は長期入院、店で働いていた人たちは失業、近所の人たちは店の無い不便な暮らし。このような結末になったと思わなかったとしても、自分がいなくなったら困る人がいるという現状を放置し、自身の腰痛を我慢することを美徳と考えるのは、責任ある姿ではなく、無責任な姿であると言わざるをえないのである。

 

責任のために必要なこと

責任と我慢が両立するという考えは捨てなければならない。責任のためには我慢を捨てなければならないし、我慢に堪え忍び続けたければ無責任であり続けるしかない。我慢している姿は美徳では無く無責任な姿であり、我慢を強要する社会は無責任を是とする社会にすることが必要である。

とは言え、日本国においてそれは簡単にできる話ではない。日本国というのは、本来なら相反する概念である我慢と責任とを密接につなげて考える社会であり、我慢を無責任ではなく美徳と扱う風潮がある。責任を遂行するためと考えて無責任でしかない我慢し続ける姿を褒め称えておきながら、我慢の末に取り返しの付かない結末を迎えても自己責任の一言で片付けるか、あるいは、自分ではない誰かの責任ということにして糾弾する社会である。

その一方で、本当に責任を遂行するために我慢しないで自己管理をしている人に対しては無責任といい、自己管理のおかげで何事も起こらないようにしている人に対し、何事も起こさなかったということで褒め称えることもしない社会でもある。よくて5段階評価の3、下手すれば2か1の評価をする。「がんばっていない」というのがその理由だ。

この社会環境が生みだしたのが店長、店員、そして近所の人たちに襲った悲劇の原因である。

変えなければならないのは個人の心のありようではなく、社会概念である。

 

所謂「子供向け」について考えてみる

Short+αで何度かドリフターズについて話題にしているし、ウルトラマン仮面ライダーについても何度か話題にしているし、アニメをよく観ることから、私を「いい年齢して子供向けのコンテンツに偏向している」と思われることもある。

たしかに一般的なイメージはそうだろう。さらに漫画家もやっているし、漫画を読むことが多いというのが加わると、所謂「子供向け」が加速する。

ところが、ここで言う「子供向け」とは何なのだろうか、と考える。簡単に捉えていい話であろうか? と。

 

8時だヨ!全員集合が好きで、ドリフのメンバーや番組のスタッフのインタビューなどを読むことも多いのだが、その中のどこにも、子供向けを狙って番組を作ったとは書いていない。多くの子供達が自分たちの作る番組を楽しみにしてくれていたことは知っていても、それは自分たちの笑いを求めていった結果であり、子供をメインターゲットとした番組を作ったわけではないのである。

これは、ウルトラマンを生みだした円谷プロダクションであったり、仮面ライダーを生みだした東映も同じで、多くの子供が視聴者になるであろうことは考えていても、最初から子供が観ることを主軸として番組を作ったわけではない。

 

バラエティ番組であったり、特撮ドラマやアニメーションであったり、そうした番組が多くの子供の支持を受けることはあっても、支持を受けるコンテンツは断じて、子供向けを考えて作ったコンテンツではない。

自分たちが信じて作り出したコンテンツに対し、多くの子供が支持をするというとき、それらのコンテンツには一つの共通点がある。

それは、本物、ということ。

 

ここでいう、「本物」とは何か?

「子供だまし」の反意語としてもいい。

「これでいいだろう」ではなく、「自信を持ってこのコンテンツを送り出す」という意識がそこにはある。

8時だヨ!全員集合は笑いにこだわった。

ウルトラマン仮面ライダーはドラマにこだわった。

歴史に名を残すアニメーションのその物語や作画や声や音楽にこだわってきた。

そこに妥協は無かった。

妥協を見せない本物だからこそ、多くの人が支持した。その支持する人たちの中には多くの子供達もいた。子供達だけがファンだったのでは無い。子供達もファンの一部を構成していたのだ。

 

子供向けと扱われているコンテンツに対して嫌悪感を見せる人、さらには我が子をこうしたコンテンツから離して育てようとする人は多いし、そういう教師もいる。そして、そうした者が考える「子供受けのコンテンツ」は、そのほとんどにおいて子供からの人気がない。皮肉にも、子供向けを謳っているのに、肝心の子供達からは拒否反応を示されるのである。

要は、つまらない。おもしろくない。

教育に良いとか、健やかに育つとか考えているのであれば、それは独り善がりの、無益どころか有害でしかない愚行とするしかない。

 

子供は大人が考えているほど愚かでは無い。子供向けを前提としたコンテンツを喜んで受け入れるとすれば、それは、コンテンツの面白さではなく、コンテンツを受け入れている姿を大人に見せつけるための、フリである。

 

子供に受け入れることを考えるのであれば、子供向けであることを全く考えず、自らがやりたいことを、本物と呼ぶに値するレベルのコンテンツとして形作ることが必要である。

 

 

8時だョ!全員集合の作り方―笑いを生み出すテレビ美術

8時だョ!全員集合の作り方―笑いを生み出すテレビ美術

 

 

ドリフ大爆笑と幻の番組について考えてみる

BSフジで再放送が始まったドリフ大爆笑の初回をご覧になった方の中には、オープニングが「ド、ド、ドリフの……」ではなく、月月火水木金金の替え歌である「よ~る~だ、八時~だ……」になっていたのに気づいた方は多いであろうが、実は、ドリフターズ出演の番組のうち、オープニング曲として月月火水木金金の替え歌を用いたのはドリフ大爆笑がはじめてではない。

ドリフターズの代表作とも言える8時だョ!全員集合は昭和44(1969)年10月から昭和60(1985)年9月までの16年に渡って放送された番組であるが、実はその途中、半年に渡って放送を休止している。何が起こったのか?

昭和46(1971)年4月から半年間、TBS系の土曜夜8時からはクレイジーキャッツ主演の「8時だョ!出発進行」という番組を放送していた。そして、ドリフターズはその間、日本テレビ系列日曜夜7時放送の「日曜日だョ!ドリフターズ!!」に出演しており、同番組のオープニング曲として月月火水木金金の替え歌を用いていたのである。

つまり、ドリフ大爆笑の初回放送のオープニングは日曜日だョ!ドリフターズ!!の復活でもあったのだ。

 

それにしても、TBSはなぜ、半年に渡って8時だョ!全員集合というドル箱を手放したのか?

日本テレビはなぜ、ドリフターズを半年で手放したのか?

事務所は何を考えていたのか?

 

8時だョ!全員集合はどのように生まれたか?

昭和46(1971)年当時は渡辺プロダクションの3大スターという呼び名が登場していた。

の3ユニットである。

ただし、この呼び名はドリフターズ8時だョ!全員集合で成功を収めてからであり、それまでのドリフターズは、クレイジーキャッツの次と目される存在ではあっても、対等に評される存在ではなかった。実際、TBSで昭和44(1969)年4月から毎週土曜夜8時にドリフターズ主演の公開生放送番組を始めるという企画が立ち上がったとき、「土曜夜8時というチャンネルの命運を掛けた時間の主演は、実績のまだないドリフターズではなく、実績申し分無しのクレイジーキャッツを主演とすべき」という意見が続出したほどである。

これに対して奮起を見せたのがドリフターズとTBSの若き番組スタッフたちである。若きスタッフ達はそれまでドリフターズとともに、ドリフターズドン!(昭和42(1967)年)、進め!ドリフターズ(昭和43(1968)年)を経て、突撃!ドリフターズ(昭和44(1969)年)といった30分番組を作り上げてきており、実績を残してきていた。そして、若きスタッフ達は野望を抱くようになっていた。土曜夜8時からの1時間番組を製作するという野望である。この時代のTBSはどの曜日もどの時間帯も視聴率争いで勝つことが多かったが、土曜夜8時に限ってはどのような番組を送り出してもことごとく視聴率争いで敗れ去っていた。土曜夜8時というのはTBSのスタッフにとって、目の上のたんこぶとも言うべき歯痒さを感じさせるシンボルだったのである。

それまでの全ての挑戦が失敗してきているという現状の前に、TBSの編成局は若きスタッフ達からの挙手に応えることとした。昭和44(1969)年時点の土曜夜8時はフジテレビ系の「コント55号の世界は笑う」が視聴率争いの王者として君臨しており、フジテレビを除く全ての局がいかにしてコント55号と重ならないように番組を作り上げるかに苦心していたのであるが、若きスタッフ達は、あえてコント55号と重なる客層に訴え出るという提案をした。同じ客層に対して、アドリブを活かしたコント55号の笑いに対向するために、ドリフターズの計算されつくした笑いをぶつけるという提案であった。

この抜擢はTBSに成功をもたらした。視聴率14%でスタートした番組は、週を重ねるごとに視聴率を上げていき、昭和45(1970)年初頭には視聴率で土曜夜8時の絶対王者であったコント55号の世界は笑うを追い抜き、昭和45(1970)年3月にはコント55号の世界は笑うを放送終了に追い込むまでに至ったのである。その後も視聴率の上昇は止まることを知らず、昭和46(1971)年時点で視聴率25%の番組へと成長していた。

8時だョ!全員集合の半年間中断まで

8時だョ!全員集合の成功は他のチャンネルにとって驚異であった。いかにして土曜夜8時の番組を作り上げるかに苦悩してきた各局は、TBSの成功を何とかして自局でも取り入れることができないかと苦悩するようになった。

そんな中、日本テレビ渡辺プロダクションに一つの申し入れをしてきた。

ドリフターズの番組を日本テレビでも放送したい」

この申し出はさすがに耳を疑うものであったが、日本テレビからの申し出は冗談ではなかった。毎週日曜夜7時にドリフターズ主演の1時間の公開生放送番組を放送したいのでスケジュールを抑えてほしいというのである。

クレージーキャッツの代表作であり、個人活動が多くなっていたクレージーキャッツにとって数少ないユニットとしての出演番組であるシャボン玉ホリデーを放送してきたのが日本テレビである。シャボン玉ホリデーの放送時間帯は日曜夜6時半からの30分。シャボン玉ホリデーの30分と、ドリフターズの新番組の1時間を合わせた90分のバラエティ時間帯とするのが日本テレビの構想であった。

渡辺プロダクションとしては釈然としない内容であったが、日本テレビの社長まで出てくるとなると事務所側も無視できるものではなくなる。

 

無視できるものではないと言っても、渡辺プロダクション日本テレビの要請に応えるには簡単ではなかった。

ドリフターズ主演の8時だョ!全員集合がここまで成功したのは、ドリフターズ8時だョ!全員集合以外の全ての仕事を断っており、一週間の全てを8時だョ!全員集合に振り分けたことで得た結果なのである。アイデアを練り、小道具をつくり、大道具をつくり、稽古を重ね、本番当日の生放送に備えるというのが8時だョ!全員集合の成功の理由であり、このスケジュールはドリフターズだけでなく、番組スタッフも、8時だョ!全員集合に出演するゲストも同様に課せられていた。

このスケジュールに新しいスケジュールをつぎ込むのは無謀とするしか無かった。ドリフターズ主演の映画の撮影や、ドリフターズの曲のレコーディングをしているではないかという反論はあったが、それとて8時だョ!全員集合の稽古の空き時間を見つけてのスケジュールの詰め込みであり、ドリフターズは既に限界に達していたのである。

ここで日本テレビの要望に応えるには、ドリフターズ8時だョ!全員集合から切り離さなければならない。そして、ドリフターズのいなくなった8時だョ!全員集合の穴を埋めるにはドリフターズに匹敵するユニットを用意しなければならない。そんなユニットは無い。

ただ一つを除いて。

そのただ一つの例外がクレイジーキャッツであった。それも、クレイジーキャッツの全員に対し、それまでのドリフターズのスケジュールの制限を設けなければした上での話である。

日本テレビの社長まで登場してきた要請に対する渡辺プロダクションからの回答は、

というものであった。

日本テレビ渡辺プロダクションの要望を全て受け入れた。

 

TBSはなぜドル箱を手放したのか

8時だョ!全員集合の成功を手放しで喜んでいたところで浴びせられた突然の知らせにTBSは驚愕した。特に、8時だョ!全員集合のスタッフたちは自分たちの作り上げてきた番組がこのような形で奪われることに我慢ならず、プロデューサーは辞表を提出する直前まで至っていた。

その思いを留まらせたのは、スタッフの誇りであった。

いかに日本テレビが総力を尽くしたところで、ドリフターズを用意しただけでは8時だョ!全員集合にはならない。8時だョ!全員集合を作れるのは自分たちが欠かせないという誇りが思いを留まらせたのである。

さらに、ドリフターズの穴埋めとしてやってくるのがクレージーキャッツ。彼らも事情を熟知しており、ドリフターズの面々と接していたのと全く同じように接するように求めたことは若きスタッフ達を感動させた。それまで雲の上の存在と考えていたクレージーキャッツが全員揃ってドリフターズと同じようにアイデアを練り、小道具も大道具も用意し、稽古に励むのである。

純粋にビジネスだけで考えたとしても、ドリフターズ不在は痛いが、クレージーキャッツ独占は TBSの利益になる話であった。視聴率は充分に計算できる話である上に、スポンサーとの契約継続も可能であったのである。それに、話を持ちかけてきたのは日本テレビ渡辺プロダクションであって、TBSにとっては寝耳に水の話であるというのは全国に広まっている話である。同情を買う案件でこそあれ、非難を買う案件では無かった。

 

日本テレビの失敗

あの8時だョ!全員集合日本テレビにやってくる。しかも、クレージーキャッツ主演のシャボン玉ホリデーとセットとなって1時間30分のバラエティタイムをつくるということで、新番組「日曜日だョ!ドリフターズ!!」については大々的な宣伝が行われたが、世間からの評判は芳しいものではなかった。苦労して作り上げた8時だョ!全員集合を奪ったという見方をされていたのである。

それでも日本テレビの番組スタッフ達は懸命に応えたとするしか無い。ただ、ここには大きな落とし穴があった。

予算だ。

ドリフターズ8時だョ!全員集合で展開してきた笑いを他局で再現するためには、8時だョ!全員集合に掛けてきたのと同等、さらにはそれ以上の予算を用意しなければセットも作れないし、曲も用意できない。おまけに、8時だョ!全員集合のセットはスタッフ個人の技術力に拠っているところが多く、いかに日本テレビの番組スタッフが尽力してもどうにかなるものではない。

技術力の不足を予算で補った結果、日本テレビが日曜日だョ!ドリフターズ!!のために用意した予算は簡単に底をついてしまった。日本テレビの幹部は「こんなに金の掛かる番組なんかさっさとTBSに返してしまえ」と怒鳴ったというが後の祭りである。

ここに、クレージーキャッツが8時だョ!出発進行に専念するために他の仕事を断ったことに対する損失補填が加わる。それも踏まえた予算は前もって計上していたが、その事前計上は簡単に使い果たした。

日本テレビは各番組に予算削減を命じることとなった。それは、クレージーキャッツ主演のシャボン玉ホリデーも例外ではなく、クレージーキャッツ全員での出演ではなくクレージーキャッツの誰か一人が出演しているかどうかという番組に変貌した。

 

渡辺プロダクションの失敗

さて、ここまでの経緯をドリフターズ自身はどのように眺めていたのか?

一言で言うと、不信感、である。

ビジネスを考えてのことであると頭では理解しても、事務所とテレビ局の都合で自分たちがモノのように扱われてやりとりされることには納得いかなかったのである。それでも、事務所の先輩であるクレージーキャッツが奮闘してくれており、TBSのプロデューサーが辞表覚悟に局に掛け合ってくれた上に、自分たちがいない間も番組の質を維持してくれたことは感謝していた。

ただ、事務所に対する不信感はぬぐいきれるものではなかった。

結果、ドリフターズをはじめとする渡辺プロダクション所属の芸能人たちが何組か渡辺プロダクションから離脱し、のちのイザワオフィスを作り出すきっかけとなった。

 

さらに、「日曜日だョ!ドリフターズ!!」の失敗に加え、渡辺プロダクション製作の歌番組と日本テレビ製作の歌番組の時間が重なったこともあって、渡辺プロダクションに所属する芸能人が日本テレビ系列の番組に出演できなくなるまでになった。これはクレージーキャッツも例外ではなく、代表作であるシャボン玉ホリデーは昭和47(1972)年に最終回を迎えるに至った。

この時代、芸能人の半数が渡辺プロダクションに所属していたと言われ、渡辺プロダクションに頼らない番組作成は不可能であるとまで言われていた。その不可能とまで言われていた渡辺プロダクション無しでの番組製作が必要となった日本テレビは、渡辺プロダクションに頼らない番組製作を最終目的として、芸能人発掘番組である「スター誕生」を、「日曜日だョ!ドリフターズ!!」終了直後である昭和46(1971)年10月に開始させた。

また、渡辺プロダクション日本テレビとの対立をきっかけとし、渡辺プロダクションからジャニーズ事務所が名実ともに独立した。もともとジャニーズ事務所渡辺プロダクションの系列会社であったのだが、フォーリーブス郷ひろみといったスターの誕生に伴って独立色を強めてきていた。それでも、渡辺プロダクションに所属する芸能人の番組に出演をさせてもらう形での協力関係は維持していたのであるが、日本テレビとの決別まで話が至った渡辺プロダクションと同調せず、日本テレビとの協力関係は維持するべきとしたジャニーズ事務所は、このタイミングで渡辺プロダクションから名実ともに独立した。

 

ドリフ大爆笑の誕生

 

昭和46(1971)年10月、8時だョ!全員集合が復活。

中断前、視聴率25%で大騒ぎされていた8時だョ!全員集合であるが、復活後の8時だョ!全員集合の視聴率は25%どころの話ではなかった。昭和48(1973)年には視聴率50%を突破し、その後もコンスタントに視聴率40%台を叩き出すお化け番組へと成長したのである。

通常、年末年始となると特番が組まれるものであるが、特番よりも視聴率がとれるということで1月1日であろうと8時だョ!全員集合はそのまま放送されただけでなく、裏番組が8時だョ!全員集合であるという理由で、毎年1月1日に放送している番組を、1月2日に変更することも珍しくなくなった。

ただ、それだけの視聴率を稼ぐスターへと成長したドリフターズであるが、テレビ出演は極めて少なかった。前述の通り、8時だョ!全員集合に全てをつぎ込んではじめてこれだけの視聴率の番組が成立するという仕組みであるため、他の番組に出演するスケジュールが確保できなかったのである。

無茶を承知でスケジュールを突っ込むのは不可能であるというのは日本テレビが証明しており、誰もが、TBSが手放すまでドリフターズの番組を作ることは不可能であると諦めていた。

このとき、フジテレビが全く想定していなかった方法でドリフターズの番組を作ることに成功した。

まず、番組製作は渡辺プロダクションから独立したイザワオフィスが担当する。フジテレビで放送する番組ではあるが、テレビ局では無く芸能事務所の作成する番組であるため、他局の社員であるTBSの番組スタッフの協力を得ることが可能である。

さらに、番組製作会議にドリフターズはいっさい関与しない。台本も完成し、リハーサルも完了し、セット作成も全て終えた後からの時間だけをドリフターズのスケジュールとして確保するのである。

 

この番組はただ一つだけ、「日曜日だョ!ドリフターズ!!」から継承したものがあった。

オープニングである。

「日曜日だョ!ドリフターズ!!」のオープニングは月月火水木金金の替え歌である「よ~る~だ、七時~だ……」となっていたのを「よ~る~だ、八時~だ……」に変えたものであった。

もっとも、このオープニングは昭和52(1977)年限定であった。ドリフターズの五人は「ドリフ大爆笑 ’77」と昭和52(1977)年限定であることを示す法被を着て撮影しており、翌年には撮影し直しであることが宿命づけられていたのである。実際、昭和53(1978)年以降毎年のようにドリフ大爆笑はオープニングを変えていた。

もっともおなじみのあのオープニングに固定されたのは昭和58(1983)年のことである。

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安室奈美恵氏の引退報道を契機として根の深い問題について考えてみる

安室奈美恵氏の引退を決めることができるのは、安室奈美恵氏本人だけ。

今回の安室奈美恵氏だけでなく、多くの人が「まだできるのに」と残念がる中で第一線から退くことは珍しくない。それがプロの世界の宿命とも言える。安室氏が引退を決断した理由は知る由もないが、想像するに、歌手としての安室奈美恵であり続けることができなくなったからというところではないであろうか。

プロスポーツの世界では毎年のように現役選手が引退をするし、音楽の世界でも、将棋の世界でも、新人が登場するのと入れ替わるように引退する者が現れる。決意をしての引退であることもあるし、契約できなくなったがために引退を選ばざるを得ない状況に追い込まれることもある。

そして、多くの人がこう考える。残酷な世界だと。

 

だが、本当の残酷はこれから先の私の記載である。

安室奈美恵氏の引退というニュースのインパクトが大きいがために引退を特別なことと考えてしまいがちであるが、引退というのは、全ての働く人に課せられている宿命であることを忘れてはならない。自分よりも優れた者が出現して立場を失うこともあれば、身につけていたスキルが時代遅れとなったがために第一線から退かざるをえなくなることもある。その職を成すことで生活していた者がその職を成せなくなるというのは、全ての働く人に訪れる宿命であるとしてもよく、もし、その職を成しているまま命を終えることがあるとすれば、それは長い現役時代を意味するのではなく若くして命を落とすことを意味するほどなのである。

ここまでは人類誕生から現在まで続いている普遍の現象であるが、問題は、人類がその寿命を長く延ばしてきたということ。かつては定年退職を迎える前に亡くなる人のほうが多かったが、今は定年退職を迎えてから20年は生きることも珍しくなくなったのだ。

そこでこのような問題が出てくる。

定年退職を迎えてから、すなわち、職を成すことで生活をしていた日々が終わりを迎えてから、死を迎えるまでの20年、30年、さらには40年をどう生きるかという問題である。年金があるからどうにかなるとか、貯金があるからどうにかなるとか考えるのは、残酷な話であるが、甘い。年金支給開始年齢はこれから先後ろ倒しになることは目に見えているし、貯金があったとしても年金支給開始年齢を充足できる可能性は低い。

かといって、寿命が延びたのに合わせるように定年退職が長く伸びることは期待できない。経営サイドからすれば、いかにベテランであると言っても、人件費が限られているならベテランよりも若い者を選ぶ。ベテランと若手と同じ能力で同じ給与だとしたらという条件のときに限らず、ベテランのほうが能力が高くてもこれからの企業経営を考えたら若手を選ぶというのはおかしな話ではない。現時点で誰かに雇われて働いて給与を得ている人は、定年延長が数年あったとしても、年金支給開始までのブランクが生じることを覚悟しなければならないのである。

引退したあとの生き甲斐について危惧するよりも先に、引退したあとの生き方、それもどうやって食料を、どうやって衣料を手にし、どうやって家賃を、どうやって医療費を捻出するかという切実な生活問題を考えなければならない。

 

安室奈美恵氏が明日の生活に困るということは考えづらい。しかし、多くの者はある日突然職業を失い、年金を得られず、職に就くこともできず食を得る方法も失われるときが来ることを考えなければならない。

来るかもしれないそのときに備えて何をしておくべきか?

二つある。

一つは肩書きに頼らない技術力を身につけておくこと。「探さなければ職はいくらでもある」という考えは捨てた方が良い。今いる会社で何をしているかなどというのは転職市場において何の役に立たない.むしろ邪魔になる。課長であった、部長であった、取締役であったというのは、過去の自分についての自慢のネタになってもその人を雇いたいと思わせるものではない。扱えるコンピュータ言語が何であるか、あるいは、英語の他に自由自在に扱える外国語として何があるかといった、肩書きに頼らないはっきりと見えた技術力があるならば次の職を探しやすくなる。

二つ目は人のつながりを持つこと。職場以外につながりの無い人は、職場を失った後で待っているのは孤独である。孤独に陥っている人に待っているのは、次の生きる手段ではなく、生きていくときの支えとなる人がいないという現実である。

以上を踏まえると、暗い現実が見えてしまう。

社畜と評されながら仕事に人生を捧げた独身の中年は老年になったらどうなるだろうか?

職業を失い、人のつながりを失い、家族との連絡も取れず、とれたとしても家族は故人となっていたとしたら、その人はどうなってしまうのだろうか。

 

そして、前述の「その人」の中には私も含まれている。

 

LIFE SHIFT(ライフ・シフト)

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