徳薙零己の備忘録

徳薙零己の思いついたことのうち、長めのコラムになりそうなことはここで

仕事の見直しについて考えてみる

 ブラック企業とは何でしょう?
 ブラック企業の条件はただ一つ、「労働条件が厳しい」です。
 ・残業が日常化しており定時で帰るなどあり得ない。
 ・朝日が昇る前に家を出て、職場でずっと働き、家に着く頃には日付が変わっているなんてことも。
 ・その上、残業代が出ない。
 ・休日も働かなければならず、休んでいたとしても電話が架かってくる。
 ・それでいて給与が安い。
 こんな企業はたくさんあります。
 ですが、どうしてその職場はそんなにブラックなのでしょう。
 どんな経営者も、自分の会社をブラック企業とさせようと会社を興したのではありません。
 どんな従業員も、ブラック企業で働きたくてその職場に就職したのではありません。
 ブラック企業ブラック企業として誕生したのではなく、ブラック企業になってしまった企業なのです。
 そして、ブラックとなった理由を突き詰めていくと、ある一定のパターンが見えてきます。
 ということは、そのパターンから脱出することができれば、ブラック企業から脱出することができるのです。

 

 過酷な現実があります。
 それは、ブラック企業は早いうちに潰れるという現実です。
 労働条件が厳しい企業は長続きしません。競争の波に飲み込まれた敗者がブラック企業なのです。経営が厳しくなり、滅びの道に抵抗している過程にある企業、それがブラック企業です。その抵抗というのが従業員を締め付けることでの支出削減なのです。
 勤め先のブラック企業ブラック企業としたままで働き続けた後に待っているのは、苦難に耐えた後の栄光ある未来ではありません。過労で倒れるか、さもなくば倒産による失業です。そうなってしまったら、心身ともに疲れ果てたあなたを助けてくれる存在などどこにもありません。再就職にもがき苦しみ、運悪く再就職できなかったら、年金も貰えず、生きるために家も車も売り払い、身の回りには何も残っていない老後が待っているだけです。
 職場がブラック企業であるときにとるべき手段は二つ、一つは職場をホワイト化する、もう一つは職場から一刻も早く脱出する、この二つの手段しかありません。

 

従業員の立場から仕事を見直そう

 働きかたの中に、明らかにおかしなところがありませんか。
 多すぎる会議。
 多すぎる書類。
 多すぎる勉強会。
 多すぎる仕事。
 多すぎる時間外勤務。
 それらは本当に必要ですか?
 必要なものを選び、不要なものを切り捨てれば働きかたを軽くできます。
 働きかたを軽くすれば仕事時間を短くでき、長時間労働から解放され、ホワイト化への第一歩を築けます。
 切り捨てることが出来ずにブラック企業で苦しみながら働くより、切り捨ててホワイト化した職場で働く道を探すべきです。


その会議は必要ですか?

 ・連絡と進捗確認のための会議を毎週水曜日の午後二時から第三会議室で行う。
 ・会議は課内の全員が参加する。
 ・会議の前に全員分の資料を作成し印刷して準備しておく。
 ・会議が終わった後に議事録を作成し、参加者全員のチェックを経た後に議事録を全員に配る。

 このような取り決めのある職場は多いでしょう。
 そして、待っているのは次のような現象ではありませんか?

 ・会議の前は会議用資料の作成に追われて本来の仕事どころではない。
 ・スケジュールが迫っているのに、会議に無理矢理参加させられる。
 ・会議に参加しても集中できず、ただボ~っとしている。中には寝ている者もいる。
 ・会議の中身は、わざわざ全員を参加させる必要のない内容。 
 ・印刷してホチキス止めするだけでもかなりの手間がかかる。場合によっては昼休みを返上しなければならない。
 ・そうして作ったせっかくの資料はほとんど読まれない。
 ・会議の資料は会議の終了から一時間も経たずにゴミ箱へ捨てられる。
 ・議事録作成のために仕事を後回しにせざるを得なくなる。
 ・議事録は読まれることなくこれまたゴミ箱へ直行。
 ・会議で中断させられた仕事が定時に終わらず、残業する。

 はっきり言います。こんな会議は無駄です。大いなる無駄です。
 仕事とは顧客満足のための活動です。お客様に喜んでいただくモノを提供する、お客様に満足していただくサービスを提供する、そのための活動が仕事です。
 こんな会議は仕事ではありません。仕事に活きるアイデアを皆で考え出す場が会議なのに、こんな会議ではどこをとっても顧客満足とつながらない無駄な儀式にしかなりません。
 その無駄な儀式である会議のために貴重な時間が費やされます。定時時間内で行われる会議は仕事の時間を減らし、定時後に行われる会議は残業を招きます。自主的な会議と銘打って残業代を出さずに定時後に会議を開催するなど論外です。ただ疲れるだけで何の成果も得られません。
 社内の連絡事項を伝える、あるいは現在の作業進捗を管理する、そしてその場に全員を無条件で参加させる。そんな会議を開催する意味などどこにもありません。
 連絡事項は、週に一度の会議に合わせるのではなく、情報が入り次第、メールで全員に送ればいいのです。
 作業進捗の管理などは機械的にやればいい話で、人間がわざわざ時間をかけてやることではありません。
 社員に伝えるだけの資料作りに手間ヒマかける必要もありません。多少の誤字脱字があろうと、読めればいいのです。エクセルやワードできれいに作る、さらにはパワーポイントで凝りに凝った資料を作る、そんなのはいりません。テキストファイルに箇条書きすれば充分です。
 人数分の印刷も要りません。資料がどこに保存しているのかの情報さえわかっていれば、必要となればそこを見ますからそれでいいのです。
 会議で皆の意見を求めたい? 冗談もいい加減にしてください。仕事を中断させられて無理矢理参加させられた会議に意見なんかありません。あるとすれば「こんな無意味で下らん会議、さっさと終わらせてくれ」という意見だけです。
 議事録作成など仕事に優先するような作業ではありません。会議の様子を録音しておいていつでも聞けるようにしておけば議事録なんかいらないのです。
 会議が必要なのは皆で知恵を出し合わなければならないときだけです。それとて、会議に参加できる余力のある人の中から知恵を出すのに必要な人だけを集めればいいのであって、全員である必要はありませんし、ましてや仕事中の人間を無理矢理連行して開催するなど百害あって一利なしです。
 会議なんかいらないのです。会議をやる暇があるなら仕事をすることです。

 
その書類は必要ですか?

 書類を作りました。
 書類が書式に従っているか、誤字脱字がないかチェックしました。
 チェック項目は、これまでの業務で現れた書類作成時のミスをまとめたチェックリストです。
 チェックリストに従って一項目ずつ目でチェックし、全てのチェックで問題がないことを確認します。
 さらに上司にチェックをしてもらいました。上司もまた、同じチェックをします。
 全てのチェック項目について、作成者本人と上司の二人分のチェックが入って、書類は正式なものとなりました。

 これ、仕事ですか?
 あなたは書類を作りたくてその仕事に就いたのですか?
 あなたは書類をチェックしたくて上司になったのですか?
 書類作りも会議と同様、仕事と関係ない儀式です。顧客先が要求する書類であることもありますから全てが無駄な儀式だとは言いませんが、仕事でないことに違いはありません。言うなれば仕事ではないがやらなければならない面倒くさい儀式です。
 一つの書類作成に掛けていい時間は五分までです。五分以上かかるようならその書類を作る専門の人間を雇うか、その書類を作るコンピュータプログラムを導入することです。そのどちらもせず、仕事をする人間に仕事をさせずに仕事でも何でもない書類づくりに仕事時間の一部を割かせるなど愚の骨頂、時間の無駄でしかありません。
 ビジネスの世界で定型の用紙があることはごく普通にあります。ですが、そこに手書きをすることが求められることなど何があるでしょう? ラブレターならいざ知らず、ビジネスで使う書類をエクセルやワードで作らず手書きさせるなどあり得ません。せいぜい、署名と捺印が手作業になるぐらいでしょう。
 手書きでないならば、そのエクセルやワードが定型書式に従っているか、VBAでマクロを組んで自動でチェックさせればいいのです。これまで発覚したミスと同じことを起こしていないか、マクロの中にチェック項目を次々と追加していけば、その書類の書式をチェックする優れたプログラムができあがります。何しろ人間と違ってコンピュータは一項目ずつ確実にチェックしますから見落としなんてありません。できあがった書類はこれまでのチェック項目を全て通過していますから、それ以外のミスがないかをチェックすればいいだけになるのです。
 それに、他の人が以前に作った書類の記録があれば、その記録を読み込んで、自分の内容に書き換えるだけでいいのです。これなら、氏名などの変更箇所だけ確認すればいいのです。
 さらに進めば、そもそも書類を作るのではなく、必要最小限の項目さえ入力すれば勝手に書類ができあがるVBAのマクロだってできます。この場合は、印刷して出てきた書類の中の必要最小限の項目の内容だけチェックすれば終わりです。
 面倒な儀式のために、仕事をしている人間の貴重な時間をつぎ込むなど言語道断です。面倒な儀式は専門の人間を雇うか、あるいはコンピュータに任せればいいのです。新たに人を雇う、あるいはプログラムを組むという初期投資は必要になりますが、面倒な儀式を代行させれば仕事時間が増えることとなります。

 さらに一歩進んで、そもそもその書類は本当に必要なのかを考えてみてもいいでしょう。書類なんか無くても問題ない業務なのに書類を使っていることはありませんか? 対外的に書類が必要なケースはやむを得ないにしても、社内であれば、書類をやめてしまって、社員がアクセスできるサイトで必要最小限の項目を入れれば社内用の書類を提出したこと同じになる仕組みはもうあります。
 勤務時間の報告書類なんていりません。拘束時間の開始が勤務開始であり、拘束時間の終了が勤務終了です。Suicaなどのカード記録を調べれば拘束時間がわかりますし、パソコンの電源で拘束時間の管理もできます。こんなもの書類にする必要もありません。
 交通費の申請書類なんていりません。最寄り駅と目的地を入れれば自動で経路と金額が出ます。
 休暇申請の書類もいりません。休暇予定日と休暇理由を選べばそれで申請完了です。
 自動化を導入すれば社内の書類なんていらなくなるのです。
 それをわざわざ紙に起こして書かせるなど、時間と紙の無駄でしかありません。

 書類づくりは仕事ではない。
 書類は限界まで減らす。
 これを徹底させれば仕事時間を増やし拘束時間を減らせます。


それはこだわることですか?

 お客様に見てもらう資料を丁寧に作る。そのために、
 ・資料の重要な部分にマーカーを引く。その際、色は黄色とし、定規で正確に直線を引く。
 ・マーカーを引いた部分には見出しとなる付箋紙やインデックスシールを貼る。その色も統一する。
 ・付箋紙やインデックスシールの順番も、上から順番にチェックできるよう、等間隔で順番に並べる。
 ・品質に影響はないが、資料として不適切な箇所があれば全体を作り直す。
 ・そして全てを紙に印刷して、ミリ単位の正確さで納品する。
 という丁寧さを徹底する。
 そのために時間をかける。

 はい、出ました。よくある無駄です。
 出版社が本や雑誌を作るとか、広告会社がポスターを作るとかならいざ知らず、たった一度見てもらうためだけの、それも、きれいさではなく内容の正確さだけが重視される資料について、見てくれを整えるために時間を費やすなんて時間の無駄以外の何物でもありません。
 受け取る立場で考えてください。
 そんなきれいさを求めますか?
 いくらきれいでも内容が正確でなければそんな資料は何の価値もありませんし、内容が正確ならきれいさなど無くても気にしません。手に取った瞬間だけはそのきれいさにインパクトを感じるでしょうが、その一瞬が終われば、きれいだろうと汚かろうと、内容が正確ならどうでもいい話となります。

 新たに店を出すという提案の資料を作るとしましょう。
 普通であればその資料に記すのは、
 「××駅南口の△△ビルの一階に空きが出る見込みで、テナント料は採算がとれる金額である」
 「来年四月に大学が移転するので需要の増加が見込まれる」
 「近隣のライバルチェーンの店舗の売り上げは以下の通りである」
 という内容であり、これらの情報は正確さを求められるでしょう。
 ですが、
 「『××駅』の部分の黄色のマーカーが定規で正確に引かれている」
 「『来年四月に』の部分の印刷が薄くなっていない」
 「『ライバルチェーン』の部分に貼った付箋紙が紙と直角になっている」
 こんなどうでもいいことに誰が注意しますか?

 資料の中で重要であるがゆえに訴えたいことをマーカーで強調し付箋を貼る。読んだ側は付箋の箇所をめくりマーカー部分を読む。これはいいでしょう。ですが、マーカーの色が何色か、色がまっすぐ引かれているか、そんなこと気にする人はいません。内容が正しいか間違っているか、それだけです。
 「お客様に喜んでいただくため」に行なう手順のうち、どれだけの手順が必要不可欠な手順でしょうか? その手順があったほうが喜ばれるならばその手順は残すべきですが、それで時間を費やした結果全体の質が下がるならやるべきではありませんし、有っても無くても問題ないというのであれば手順自体時間の無駄です。
 どうしても手順を残すのであれば、そのための人を新たに雇うか、そうした手順をこなせる機械を導入することです。仕事をしている人間に追加させるような手順ではありません。
 人を雇うのも機械を導入するのもできないなら、こんなどうでもいいことは即刻やめましょう。


印刷は必要ですか?

 業務で使う書類や資料を紙に印刷することは頻繁にあります。
 この「紙に印刷する」という行為は思いのほか時間がかかります。プリンターに何のトラブルもなく自動的に出てくれるとは限らず、紙切れや紙詰まり、トナーやインク切れといったトラブルは頻繁に発生します。
 また、モノクロで印刷するつもりがカラー設定になっていて、無駄に時間をかけたあげく印刷し直しとなることもよくあります。
 さらに、画面上の表示と印刷した結果が違っているので、印刷してきれいに見えるようにPC上で微妙な位置合わせや図形の調整をし、再度印刷してズレがどの程度か確認することもよく見られます。
 これもまた、業務時間の無駄を生む原因になります。

 そもそも、何のために紙に印刷しなければならないのでしょうか?
 少なくとも社内で使う資料を紙に出さなければならない理由はありません。エクセルやワードのファイルをそのままやりとりすればいいのです。情報漏洩が不安だというなら、パスワードをかければそれで済む話です。ISOが紙に出すことを求めているというならISOのほうが間違っているのですから、ISO取得なんか辞めてしまいましょう。
 紙以外の納品、ネットでのファイル転送や、CD-RやDVDでの納品が認められるのであれば、印刷する必要などどこにもありません。こちらのPCの画面で見えている内容ならば、顧客先でもまたPCで同じ内容が見えます。
 どうしても紙でなければ納品を受け付けないというのであれば、自社内で印刷するのではなく印刷専門の会社に依頼するか、自社内での印刷にこだわるなら印刷専門の要員を新たに採用すべきです。印刷は業務の片手間に行うにはあまりにも時間がかかりすぎる作業です。そのために既存の作業要員の仕事の手を止めて印刷をさせることはデメリットがあるのみでメリットなど全くありません。「ちょっと印刷しておいて」などと軽く言うこともありますが、それは断じて「ちょっと」ではない、仕事中断と仕事遅延の元凶です。
 印刷そのものの要否や印刷の手間を見直すだけで業務効率は劇的に改善しますし、ついでに言えば紙とトナーのコストカットにもなります。

 もう一度考えましょう。紙にする必要がありますか?


その電話は必要ですか?

 電話が鳴ったらワンコール以内に受話器を取ることを徹底している職場がありますが、電話というのは業務の手を止め、横から新たな作業を割り込ませる行為です。
 電話の内容が現在の作業を止めてでも行う価値のあるものかどうかはわかりません。価値があるならばマルチタスクを要求することになりますし、価値がないなら仕事の中断になります。何れにしても、仕事の効率を悪化させることとなります。

 机の上の電話など要らないのです。
 電話はチームに一つあればよく、鳴った電話に出ていいのはチームのマネジメントをする者だけです。
 マネジメントする者が電話に出て、電話での依頼内容が現在のチームのスケジュールにどれだけ影響の与えることであるかを判断した上で仕事を割り振るべきであり、現在仕事を抱えている者の作業を無条件に中断させてまで電話応対をさせる必要はありません。ましてや、入ったばかりの新人にさせるような仕事でもありません。
 電話に限らず、外部からの連絡についてはチームマネジメントを行う者に集中させなければなりません。それがどんなにチームの特定個人に関わる内容であろうと、マネジメントを行う者の手を介することなく、特定個人が直接外部と連絡するのは、チーム運営にも支障が出ます。
 外部からの連絡に気にすることなく仕事に集中できる環境を作ることで、仕事の効率は上がり、作業時間の短縮が図れると同時に、チームマネジメントによる仕事の割り振りにより作業の平準化も実現することとなります。
 受話器の数そのものを減らし、目の前で電話が鳴っていても、他の仕事をやっている間は出ないということを徹底すれば、業務効率はかなり改善するのです。

 電話を一人一台ずつ設置するのは仕事を便利にする有意義な投資ではなく、仕事を遅らせる無駄な投資です。すでに電話を設置してあるならば、管理職の机の上の一台だけ残して、あとは全部電話線を引っこ抜いてしまいましょう。


仕事の手を止めさせてまですることですか?

 集中している人間に横から割り込んでくるのは電話だけではありません。
 進捗管理をしているマネージャーから作業の進捗状況を確認する話が飛び込むこともあります。
 作業に不慣れな若手が質問してくることもあります。
 作った資料のチェックをするよう要請されることもあります。
 他のチームの者が自分の業務に関連することで話を持ちかけてくることもあります。
 何れも仕事の集中を途中で中断させる行為であり、作業時間を長くする事はあっても短くすることはありません。

 考えてみてください。
 手術室に乗り込み、今まさにガン細胞の摘出手術を行なっている外科医師に対して「先週は誰の手術をしましたか?」と聞きますか?
 裁判所の傍聴席に入り込み、被告の弁護をしている弁護士に向かって「ついさっきスピード違反で捕まってしまいましたので道路交通法について相談させてください」と求めますか?
 仕事に集中している人間に横から入り込むというのはこれらの行為と同じなのです。それがどんなに聞いてくる人にとっては重要なことであっても、仕事に集中している人間にとっては仕事のジャマになる迷惑行為に他ならないのです。
 進捗状況がどうなのかなど、仕事の手を止めてまでわざわざ聞くことではありません。今何をやっているのかなど見ればわかりますし、管理できていなければおかしいのです。どうしても管理できないというのであれば機械的な管理システムを作り上げるべきであり、仕事をしている人間の手を止めてまで聞くようなことではありません。
 作業でわからないことがあるならば、仕事をしている人間に聞くのではなく、まずは自分で調べることです。調べてもどうしてもわからないことがあったら、仕事の手の空いている人間に聞くことです。現時点で仕事に集中している人間が一番よくわかっているのであっても、絶対に集中を止めてはいけません。
 資料のチェックにいたっては仕事と兼任で出来る代物ではありません。全く仕事を抱えていない人間に依頼するか、資料をチェックする専門の人間を新たに雇わなければ絶対に無理です。いかにその資料に関する有識者であっても、仕事中である人間の作業を中断させていい理由にはなりませんし、仕事を中断させてチェックさせた場合のチェックの質はお世辞にも期待できるものにはなりません。
 一度途切れた集中を取り戻すのは容易なことではありません。一度中断が発生したら、最低でも三〇分、ひどい場合には一時間のブランクが生じます。集中すれば二時間で終わる仕事なのに、中断が入り込むことで三時間になり、四時間になってしまいます。それなのに、成果は二時間分の集中と同じ結果しか残りません。
 仕事を受け持ち、その仕事に集中している者のジャマをしないことが、より短時間で仕事を完了させるために最優先で取り組まなければならない行動です。質問の答えを得れば自分の仕事が終わるというシチュエーションであっても、他者の仕事を中断させる行為は許されるものではありません。

 仕事中に話しかけていいのは、その人のやっている仕事をその時点で強制終了させてしまっても問題ない、あるいは、話しかけた本人が中断させられた者に代わって仕事の続きを何の支障もなく行えると判断したときだけです。


みんなが決めたこと=正しいこと ですか?

 始業時刻は九時だけど、一時間前には自主的に出勤しよう。
 スキルアップのためにみんな集まって勉強会をしよう。
 自主的な勉強会だから業務時間外だな。
 自主的な集まりだから残業代は出ないけど仕方ないな。
 とてもためになる本だから、この土日にみんなで読んでおこう。
 読んだら感想文を書いて、月曜日に集めてみんなで発表しあおう?

 冗談でしょう?
 自分のスキルアップのためと言われてもサービス残業なんてやっていられません。一時間早く出勤するということは貴重な睡眠時間を二時間は削ることを意味しますから疲労が抜けません。その疲労を回復すべき休日の使い方を支配されるなんて絶対に受け入れられません。九時が始業時刻だというのなら九時までに出勤すればいいのです。それよりも早く出勤することを求められるなら、それより早く出勤した分は超過勤務手当の対象として請求しなければなりませんし、出勤するよう命じた側も超過勤務手当を支払わねばなりません。
 残業代をはじめとする超過勤務手当は、プライベートの時間を削った代償として職場が支払うものです。自主的な勉強会だろうと、プライベートの時間を削っている以上残業代は支払うのが義務であり、受け取るのも義務です。始業時刻よりも前に出勤させた、あるいは休日の使い方に制限を掛けたとすれば、それもまたプライベートの時間を削ることになりますから、残業代の支払い対象となります。「自主的」などという逃げ口上は通用しません。
 休日を自分の能力向上のために宛てるのは社会人としてごく普通のことですが、休日の能力向上は自分に対する投資であって、職場のみんなで決めたことの実践ではありません。
 本心では「いやだなあ」と感じることであっても、「みんなが決めたことだし仕方ないか」などという考えを受け入れてしまったら、待っているのは永遠と続く自己犠牲です。法律で決まった義務ならば守る義務もありますが、法律で決まっているわけでもないことを「職場のみんなで決めたことだから」と強制するのは明らかに法令違反です。
 会議の流れの中で「みんなで××しよう」という話が出たとき、「自分は嫌です」「どうしてもやれと言うなら残業代を全額請求します」と宣言しないと時間が奪われることとなります。仕事の時間は減るわけはありませんから、奪われることとなるのはプライベートの時間です。

 「自分は嫌です」といった者を村八分にするような職場はそう遠くない未来に破綻して潰れます。「やらないなら辞めろ」と言われた場合は、職場風土を変えるか、それができなければ潰れる前に再就職先を探して早々に辞めるのが吉です。


そこまで職場に払わせますか?

 職場で使う文具やOA機器を職場で購入していることはよくあります。
 そして、どのような文具やOA機器が欲しいかをリクエストし、ときには製品の型番を書類に記し、上長の印鑑を貰った上で、総務に提出するという手順を踏んでいる職場もあります。
 一見すると従業員の金銭的負担がゼロですから良いように見えますが、実はこれ、大きな落とし穴があります。リクエストに要する書類作成の手間がかかりすぎるのです。
 型番を調べ、書類を作成し、上長の許可を貰って総務に出す。この時間がかかりすぎるのです。出勤途中のコンビニで買えば済むもの、あるいは、帰りに文房具店にいけば手に入るようなものまでいちいち書類を書いていては時間がかかりすぎます。それに、発注した文具が届くのもまた時間がかかりますから、必要な文具を手にするまでの時間のロスは図り知れません。
 そんな手間をかけるならば、自腹を切って店で買ってくればいいのです。

 OA機器、特にPCについては職場で購入し従業員に割り振っているケースもあります。固定資産として誰がどのPCを使っているか管理することも珍しくありません。
 しかし、PCのスペックに問題があります。自分で買って自宅で使っているPCは自分の満足いく性能のPCでしょう。ですが、職場のPCが満足いく性能だとは限りません。だいたいにおいて、職場のPCは少し前の世代で処理が重いことが多いです。
 PCのスペックが仕事の作業効率に関わることは珍しくありません。電源を入れてからアプリケーションを立ち上げて使用できるようになるまで時間がかかる、仕事中のPCが固まる、予期せぬところで落ちる、こうした悩みに苦しむ者は多いのです。
 OA機器について、職場で管理するのはセキュリティーだけでいいのです。自腹を切ることになりますが、満足いく文具、満足するPCを買って持ち込めば作業効率が上がるのです。
 情報セキュリティーの問題がありますから何でも持ち込んでも構わないとまではいかないでしょうが、PCそのものや、増設用のメモリ、より大きなディスプレイ、使用する有料ソフト、こうしたものを職場のセキュリティ基準に従うという前提で持ち込むことを許せば、仕事の効率はかなり向上します。


何のために残業するのですか?

 仕事が終わらないから残業する。これはよくあります。
 一日八時間というのが労働基準法の決まりなのですが、八時間では終わらないような仕事量を命じられた上に、納期まで時間がないから仕方なしに残業する。本来は好ましいことでなく、そもそもチームマネジメントの失敗の結果なのですが、これはまあやむを得ないことと言えましょう。
 ですが、そうではないのに残業するケースもあります。
 まず、他の人が残っているから帰るわけにはいかない。
 それから、定時を過ぎてから会議の予定があるので、それまで残っていなければならない。
 これらは最低最悪のケースです。

 他の人が残っているからという理由で自分の仕事を終えた者が残るのは無意味です。残っている人が自分よりはるかに多い仕事を命じられ、かつ、自分がその仕事を受け持つことができるというならば、仕事を分担すれば早く終わるという考えもできますが(それでもチームマネジメントのミスではありますが)、同じだけの仕事の割り振りがあって、自分が早く終わり、他の人がより多くの時間を掛けているというのであれば、つきあって残業する必要はありませんし、してもいけません。定時で帰ることで、能力を上げれば定時で帰れるのだという意識を職場に持たせなければならないのです。これは、同じ仕事をより効率的に果たしたのですから、評価の対象になりこそすれ、悪評を生む理由にはなりません。
 もっと問題なのは、定時を過ぎても働いていることを前提とする会議です。
 会議を企画した人にとってはその時間まで残っているのが当たり前のことかも知れませんが、定時を過ぎてまで会社に残るのは本来ならば異常事態であり、それを前提とするのは、会議を企画した人の自己マネジメントができていないということです。長く残業することを自らの真面目さと考える、あるいは、より長く働いてより残業代を稼ぐことを信条とする人はどこにもいますし、それはそれでその人の考えなのですから、もう手遅れですしとやかくは言いません。ですが、他者に押しつける概念ではありません。
 残業は無能の証です。
 急に飛び込んだ仕事ならいざ知らず、前もってわかっている仕事が定時までに終わらないのは、その人の仕事量が多すぎるか、その人の仕事をこなす能力が低いということです。前者であればチームマネジメントの無能の証ですし、後者であれば能力そのものの不足です。
 勤務時間外に予定を組むのは、予定を組む者の無能の証です。予定を組んだ本人がどうしても仕事が終わらずにその時間まで残るのはやむを得ないとしても、その巻き添えで他者にまで影響を与えるのはただの無能です。
 他者の目を気にせず定時になったら帰る。仕事がまだ残っていても明日に回せるのであれば定時に帰る。定時外の予定は組まないし組ませない。組んだとしても無視する。職場としてこの方針を明確にしない限り、職場のブラック度は高まり、早い段階で破綻して潰れます。

 残業を前提する企業風土があり、何をしてもその風土が改まらないのであれば、企業のマネジメント能力は絶望的に低いということです。そんな企業に未来はありません。一刻も早い脱出を検討しましょう。


そもそも人数は足りていますか?

 一人で三人分の仕事をこなす人がいます。とても優秀で、普通の人ならば六時間かかる仕事を二時間で終えるような人です。
 このようなハイスキルの人間がいると、チームで受けた仕事は次々とこなせますし、一見するとすばらしい成績を残します。
 ですが、そのチームは永続するでしょうか?
 本来ならば三人が必要なところを、三人分の仕事をこなせる一人だけを雇うのでは、その個人にかかる負担があまりにも大きすぎ、早々にその個人が過労で倒れます。
 そもそも一人の人間が一つの仕事に専念し続けるなどありえないことです。毎月定例的に仕事があり、その仕事は今後も永遠に続く見込みであると言っても、人間ですから体調不良で倒れることもありますし、他の仕事があるので定例的な仕事にまでは手が回らないこともありますし、ステップアップを図って転職することだってあります。
 いくら優秀であっても一人に任せる仕事量は一人分のみ、三人分の仕事が必要ならどんなに妥協しても最低四人は雇う、このようにしないとチームは永続しません。
 チームマネジメントで重要なのは、受け取った仕事を「その人しかできない仕事」とすることではなく、「誰もができる仕事」とすることです。そのためには、仕事を細分化し、一人当たりの作業量を減らした上で、どのようにすればその作業がこなせるかを明確化することです。
 ハイスキルな一個人だからこなせるような仕事は、そのハイスキルな一個人がいなくなった瞬間に破綻しますし、いなくなった後釜に据えるのも同レベルのハイスキルな者でなければなりません。そのような人間に運良く巡り会えばいいのですが、そのような好都合な人間などそうはいません。だから人手不足だと嘆きます。それも、いなくなってはじめて嘆きます。
 しかし、作業を細かく分けて一人当たりの仕事量を減らすとどうなるでしょう。ハイスキルでなくても仕事がこなせるようになります。一人で三人分という無茶ができる人間を前提とするから人手不足だと嘆くのであり、一人で一人分の仕事になれば人手不足など起きません。

 目安としては、現在の仕事をこなすのに必要な人員の一・二五倍、例えば、その仕事をこなすのに最低八人が必要である場合は、一・二五倍の一〇人を配備することです。残る二人は余剰人員ではありません。チームマネジメントや、会議出席、書類作成、仕事に不慣れな者のサポートなど、他と兼任できる作業ではない作業を担当する者です。
 一・二五倍というのは業務を正常に稼働させるための必須人員です。八人が必要の時に八人しか配置しない、あるいは最低八人が必要であるところを八人以下の人員で稼働させるよう考え出したら、その会社の経営はいよいよ危ないということですから、未来はありません。健康なうちに一刻も早く脱出しましょう。

 
その人をリーダーにしていいのですか?

 すばらしい成績を残したので出世させて中間管理職にする。
 よくある話です。
 と同時に、一社員であった頃は優秀だったのに中間管理職となると全く成果を残せないという評判を受ける人もよくいます。

 リーダーシップが無い人をリーダーに据えると、本人にも、チームにも、不幸が訪れます。
 人を指揮する能力は仕事の能力と何の関係もありません。
 実際に現場に立って仕事をする能力ならばあっても、複数の人を束ねて指揮する能力が存在しない人など珍しくありません。先天的にリーダーシップがないのです。リーダーシップは教育や訓練で身につくものではありません。ゼロには何を掛けてもゼロなのです。リーダーシップを欠いた人を無理矢理リーダーにすることに何の意味があるでしょうか?
 一社員としての成績の良さに対する評価は出世ではありません。待遇です。
 職場内に明確な階級があり、階級に応じた待遇を与えるという仕組みであれば、昇格させることは評価として当然ですが、昇格に応じて人の上に立たせることを求めるのは人への評価として間違っています。評価することと人の上に立たせることをイコールに考えるような会社は、会社の評価システムそのものが間違っていますから、早々に見直しが必要です。
 どうしても評価システムを改めないのであれば、評価に値する結果を残したとしても、リーダーシップのない人は絶対に昇格させるべきではありません。誰の上にも立たないポジションのときにベストパフォーマンスを発揮する人は、誰かの上に立たせるべきではないのです。
 これとは逆に、誰かの上に立つことでパフォーマンスをより発揮するような人であれば、一社員としての評価が低いものであっても人の上に立たせるべきです。
 組織にとっての最適な人員配置として、一個人であるほうが良いか、それとも誰かの上に立つのが良いかを見定めることは絶対に必要です。リーダーに向いていないのに無理してリーダーをやらせる、誰かの上に立つほうが能力を発揮するのに誰の上にも立っていない、こういったケースは、本人にも組織にも不幸な結果となります。

 もう一度問い直しましょう。
 その人をリーダーとして良いのですか?


人をどのような基準で選んでいますか?

 コミュニケーションというのは本来、
 ・相手のわかる言葉で話し
 ・相手に興味を引いてもらい
 ・相手に何かをしてもらう
 という行為であり、それをいかにこなせるかがコミュニケーション能力です。
 
 このコミュニケーション能力、略して「コミュ力」なる語が新卒採用の場で飛び交っていますが、コミュニケーション能力を頼りに新人を採用することが必ずしも正しいとは限りません。コミュニケーション能力の高さは、将来、その企業の管理職となって皆を指揮できる可能性のあることを指し示しますが、全員が全員管理職になるでしょうか?
 管理職以外で能力を発揮して会社に大きな利益をもたらす者は数多くいます。むしろそのほうが多いぐらいです。
 コミュニケーション能力を基準に人材を選ぶなら、コミュニケーション能力が求められる職種に限定すべきです。それ以外の職種についてのコミュニケーション能力は、高ければ便利だが、低くても困らないという程度のものなのですから。

 口下手で内向的な人は、就職活動で苦戦します。コミュニケーション能力が低いとされるからです。
 ですが、システム開発力が素晴らしければIT業界でエンジニアとして充分活躍できます。コミュニケーション能力が高くてもコンピュータプログラミングができない人間はエンジニアになれませんが、コミュニケーション能力が低くてもコンピュータプログラミングができればエンジニアになれるのです。
 電子機器に対する知識が深ければ、電子製品の製造や設計で活躍できます。コミュニケーション能力が高くても自分たちの作っている製品についての知識がなければ何の役にも立ちませんが、製品に関する知識が深ければコミュニケーション能力が低くても頼れる存在になります。

 コミュニケーション能力の高い大学生だけを選り好みしている結果、就職できずにいる若者が数多く生まれています。
 新卒でない、さらには職歴に空白がある、こうした人材を無条件に切り落として何の意味があるでしょうか? 新卒で就職できなかったからという理由で雇わない、職歴に空白があるという理由で雇わない、そんな選り好みなどせずに、職場で役に立つ人材であるかどうかを見定めれば、人手不足に嘆くことなどなくなります。この国に人材はたくさんいるのです。
 コミュニケーション能力の高い新卒だけを求める人材採用は、職場の中でコミュニケーション能力が必要な部門が、どうしても新卒でなければならない人間を募集するときの採用というケースしかあり得ません。そうでないケースは、コミュニケーション能力ではなくその部門の求める能力を持っているかどうかだけを考えればいいのです。
 コミュニケーション能力が低くても、新卒でなくても、仕事を任せられるならば雇うことです。そうすれば一人当たりの仕事量が減り、職場のブラック化をかなり抑えることができるのです。

 

Google+にむかし書いたこと

経営者はコンサルタントに問い合わせました。
その答えは、やる気の無い社員が不要であり、やる気のある社員のみを残すべきとの指摘でした。

経営者は従業員のやる気を促すことを考えて実践しました。

その企業では、その仕事は今まで2人でしていました。8時間の2倍ですから合計16時間です。

その2人のうちの1人が8時間でかかる仕事を5時間で終えるようになりました。経営者は考えました。5時間でできる人だけを残せば2人分の人件費が、1人分の基本給+残業代だけで済むんじゃないかと。

結果、会社でその仕事ができる人は1人だけになりました。
もう1人はやる気の無い社員と扱われクビになり他の会社に行ったようです。
残った1人は毎日2時間の残業をして2人分の仕事をするようになりました。

残った1人は毎日々々2時間の残業をしました。
1人で2人分の仕事をしています。
いくら1人分の仕事を5時間でできると言っても、本来2人が必要な仕事量を1人でこなしています。

最初は素晴らしいと思っていた周囲の人も、次第に当たり前だと思うようになってきました。
残った人は言いました。「つらいです。人手を増やしてください」と。
企業は「今まで1人でできているじゃないか」と言って無視しました。
残った人はだんだんと意欲を失っていきました。2時間の残業が3時間になり、4時間になりました。

周囲の人は言いました。「どうして終わらないんだ」と。

企業は言いました。「やる気が無いのか」と。

残った人は、2人分の仕事をする人という高評価から、どんなに残業しても自分の仕事を終えることのできない無能な人という低評価になりました。

残った人は追い詰められていきました。

話しかけても虚ろな表情のままです。

受け答えもできません。

仕事のミスも増えてきました。

ミスが多いからという理由で評価はみるみる下がっていきました。

経営者は考えました。
ミスが多く、評価も低い社員を辞めさせるべきだと。
このままでは他の人のモチベーションも下がると。

経営者はその社員を「モンスター社員」として扱い、辞めさせるよう仕向けました。

企業の目論見は成功しました。その人は鬱による退職を選びました。

企業は見落としていました。
会社でその仕事ができる人は1人だけになっていたことを。
それも、本当は2人が必要な仕事を1人でこなしていたことを。

「あれ? あいつがいなくなったら、誰がこの仕事をやるんだ?」と気付いたときにはもう手遅れでした。
誰もその仕事ができません。

その仕事ができる人を探してもダメでした。
「あの会社は2人かかる仕事を1人に押しつける会社だ」という評判ができあがっていました。

その会社で働きたいなんて考える人はいなくなっていました。
他の社員も、「そういえば2人でやってた仕事を1人でやっていたんだ」と思い出しました。
やる気の無い無能な社員ではなく、意欲あふれる優秀な社員だったんだと思い出しました。
優秀な社員をこき使って、最期は無能扱いして追い出した会社です。
次は自分かも知れません。
このままこの会社で働いていて、未来はあるだろうかと考えた社員はどちらかを選ぶようになりました。
ボロボロになって辞めさせられる前に自ら会社を去るか、やる気を見せずに会社に残って日常を惰性で過ごすかのどちらかです。

経営者は言いました。
やる気を見せろと。
社員の耳には届きません。
やる気ある社員はもう辞めたのですから。

経営者の前に突きつけられたのは、次々と社員が減っているという現実、そして、このままでは会社が潰れるという数字です。
売上も、利益も、伸びないどころか目に見えて減り続けています。

どうしてこうなってしまったのか経営者は振り返りました。スタートはコンサルタントからの指摘でした。

「モンスター社員の解雇方法」

と呼ばれるそれを実践してから狂いだしたと気付いたとき、企業に残されていた選択肢は唯一、倒産だけでした。

-完-

ACL決勝を振り返ってみた

2017年11月25日、浦和レッズは10年ぶり2度目のAFCチャンピオンズリーグ(以下「ACL」)優勝クラブとなった。

ACL優勝は10年前に経験しているとは言え、2017年11月25日のACL勝戦はそれまでに体験したどの試合とも違う特別なものだった。

ここで備忘録的に、ACL決勝はどのような光景であったのかを思い出しつつ書いてみる。

 

何が特別だったのか

どんな大会であれ、決勝戦というのは特別な試合だ。ルヴァンカップ(かつてのヤマザキナビスコカップ)の決勝戦も、天皇杯の決勝戦も、勝てば優勝という特別な事情があり、ただの試合ではない特別な試合とさせている。

それらの決勝戦ACLの決勝戦との違いは、主催がアジアサッカー連盟AFC)であるということ。ACLは、準決勝までは各クラブが試合を主催し、選手紹介も場内アナウンスもいつもの通りであるが、決勝戦だけはACL決勝だけでしか体験できない特別なものとなる。 これはルヴァンカップ天皇杯の決勝でも同じ。

<準決勝の選手紹介>

youtu.be

 

<決勝戦の選手紹介>

youtu.be

 

試合前にピッチレベルで行われるイベントもACL決勝の特別なものとなる。

youtu.be

 

場内アナウンスは基本的に英語。

トロフィーを場内に運び込むのはその国の伝説的なフットボールプレイヤーで、2017年のACL決勝第2戦の場合はカズこと三浦知良氏がその役割を果たした。

youtu.be

ちなみに、サウジアラビアで開催されたACL決勝第1戦では、21年間の現役生活をアルヒラル一筋で過ごし、350試合に出場して183得点、サウジアラビア代表として81試合に出場して20得点という、アルヒラルの英雄ユセフ・アル・トゥナヤン氏がつとめた。

 

サポーター

AFC主催ということでもACL決勝は試合そのものが特別であるが、試合前のサポーターの意気込みもまた特別になる。

まず、入場券が手に入らない。販売開始初日に売りきれるというだけならまだいい。販売開始から数秒で売り切れるのである。もっとも、その後で待っているのは転売。定価の倍ですら安値というのが転売屋のつけた相場である。ただし、転売屋はバカだが、サポーターはバカではない。転売屋の手に流れた入場券は取引が成立せずに終わった。

無事に入場券を手に入れたサポーターは、スタジアムまでの見慣れた道が今までと違うことに気づかされる。

f:id:tokunagi-reiki:20180102204927j:plain

 入場した後で待っているのは、これまでに感じたことのない圧迫感。

寒くなってきているので着込む量が多く、同じ人数であっても密度が詰まっているように感じるというのもあるが、スタジアム全体の雰囲気そのものが決勝のプレッシャーから重苦しくなっている。猛烈なストレスを感じるだけでなく、息苦しさも感じる。

 

各人の座席にはビニールが置かれている。これで「ああ、今日はビジュアル(=コレオグラフィー)をやるんだな」という感情を抱く。この時点で自分たちが生み出すビジュアルがどのようなものになるのかを知る者は少ない。おそらく、全体で100名もいないであろう。ちなみに、これは浦和レッズだけかもしれないが、クラブ関係者はビジュアルをやることは知っていてもどのようなビジュアルであるかは知らない。そもそも、クラブ関係者はビジュアルにまったく関与せず、全てサポーター有志のボランティアである。

どのようなビジュアルになるのかを知らないまま、タイミングが来たらビニールを掲げる。事前練習無しの5万人のぶっつけ本番である。前述の通りクラブ関係者がビジュアルに関与していないので、ビニールを掲げるタイミングが場内アナウンスで流れることもなければ、クラブの公式SNSアカウントで呼びかけるということもない。どのタイミングで掲げるかもサポーター有志のボランティアの呼びかけである。

その呼びかけの結果、このようなビジュアルができあがる。が、掲げている本人はどのようなビジュアルになっているのか知らない。知るのはスタジアム内のビジョンに映し出されてからである。

youtu.be

youtu.be

 

繰り返すが、ACL決勝の主催はAFCである。

試合進行もAFCであり、試合開始もAFC主催のためなのかこうなる。

youtu.be

 

試合 

試合が始まったら、そこから先は浦和レッズのいつもの試合である。選手はもちろんいつものサッカーという姿勢であろうとしたであろうが、観ている側にとっても、浦和のユニフォームを着た選手が浦和のサッカーをしているという点で普段と違いは無い。

ただし、二点の違いがある。

一つはサポーターの声援。人数が多いので声援も多くなる。

もう一つは、試合中も消えることのない圧迫感。観ているだけでも激しいプレッシャーに潰されてしまうように感じる。選手が、ではなく、観客が、である。自分でも激しい動悸に襲われ、息苦しさを感じる。

なお、入場者数が多いことから想像できていたとおり、ハーフタイム時のトイレの行列や売店の混雑はいつも以上であったが、入場者数の多さ自体は何度か経験しているので特に驚きはない。

 

そのとき

前半を0対0で折り返し、後半も膠着した状態が続いていたが、観客席には何かが起こりそうな雰囲気が漂っていた。

その何かが起こったのは、87分(後半43分)。決勝点となる得点が生まれたとき、スタジアムが揺れた。テレビで観ているだけでは感じないであろう揺れが、スタジアムに詰めかけていた全ての人に襲いかかった。

youtu.be

 

試合終了の瞬間の歓喜は、どの優勝でも同じである。違うのは試合後のセレモニーが英語であるということぐらい。

youtu.be

 

終わりに

2018年シーズン、浦和レッズACLに臨むことはできない。ACLに出場できるのはJ1で3位以内に入ったクラブ、そして、天皇杯で優勝したクラブだけである。浦和レッズはそのどちらでもない。

2018年シーズンのACLに日本を代表して臨むこととなる川崎フロンターレ鹿島アントラーズセレッソ大阪柏レイソルの四クラブのどこかが、ACL決勝の雰囲気を再現することになると信じている。ACLのトロフィーが日本にあり続け、浦和レッズが果たせなかった国外でのクラブワールドカップ準決勝進出を達成してくれると信じている。

腰痛について考えてみた

何度かネタにしているが、慢性的に腰痛を抱えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

ameblo.jp

Twitterやブログでは笑いベースで書いてはいるが実際にはかなりつらいわけで、今日のこのタイミングもやはり腰痛に苦しんでいる。

この痛み、整形外科に行っても鎮痛成分のある湿布が処方されるだけで、速効治療というわけにはいかない。腰痛の症状について調べると内臓が原因とするものも散見されるが、それについても今のところ異常は見られない。現在の痛みの理由は筋肉に由来し、痛みを一瞬にして解消する方法など無い。時間を掛けてゆっくりと治していくしかないのである。

もし、私の今日の動きにぎこちなさが見られるとしたら、それは腰が原因である。

我慢と責任について考えてみた

今の住まいに引っ越す前、近所に頻繁に通っていた店があった。

およそ10年ぶりにその店に行ったら閉店していた。

不況のせいかと思っていたが、聞いたところそうではなかった。繁盛はしていたし、売上だって申し分なかったらしい。欠かせない店として近所では認識されていて、私が引っ越してからもリストラどころかむしろ人を募集するほどで、常に数十人の方々を雇っていたという。

その店が、突然に潰れた。

そして、その理由は店長にあった。

 

何があったのか?

店長が倒れた。

店長は以前から腰が痛いと言っていたようだが、腰痛などたいしたことないと考えて何事も無かったかのように出勤し店に立ち続けていた。それが失敗だった。

早い段階で病院に行けば治ったかもしれない。しかし、店長が病院に運ばれたときにはもう手遅れであった。どのような症状なのかは聞くことができなかったが、二度の全身麻酔手術を含む半年間の入院、そして、退院後も永遠に車椅子での生活というものは聞くことができた。

店長が入院していた半年、当初は残された人たちで、少ししてからは本社から別の店長が来て店の建て直しを図ったようであったが、その店は店長一人が支えているような店であった。その支えていた一人が居なくなった店がどのような運命を迎えたか? 結論だけを言うと閉店であるが、そこに至るまでは、混乱、混迷、生き残るための人員削減、残された者の絶望的というしかない奮闘(あるいは無駄な抵抗)が続いていた。

店の顧客も、店長がいなくなったことで以前のような店でなくなってしまっていたことを知り、店長が戻ってくるまでを見届けようとしていたようであるが、日に日に衰えていく店に耐えることはできなかった。

誰の目にも見える衰退を目の当たりにし、店は潰れた。

店で働いていた数十人がが迎えたのは、失業だった。それも、苦労に苦労を重ねた末に迎えた失業だった。

店の顧客が迎えたのは、店が無くなった生活だった。その店の便利さに慣れ親しんでいたところで迎えた突然の店の喪失だった。

この全てが、店長一人が倒れたことによって生じた出来事であった。

 

店長は無責任だったのか?

自分一人がいなくなったことで、多くの人の暮らしを不便にさせ、数十人を失業させた。この点だけを捉えれば店長は無責任だと言えてしまう。

しかし、店長は不真面目であったとは誰も言わない。常に店で働いていたことは近所の人であれば誰もが知っていることであったし、かつての従業員の誰もが自分たちに真剣に向かい合ってくれている頼れる上司と考えていた。誰よりも早く出勤し、誰よりも店に残っていた。ほとんど休むことなく働き続けていたと誰もが口を揃えた。

店長について責めるところがあるとすれば、腰痛を我慢して放置し続けていたことが挙げられる。それでも、店長が腰痛を放置せざるを得なくなっていた事情は誰もが理解している。何しろ店長無しで店が回らないのだ。店の誰もがそう思っていたし、他ならぬ店長自身もそのように自覚していた。

店長が腰痛を我慢していたことを見て、多くの人が真面目で責任感の強い人と感じたであろうし、店長自身もそのように思っていた。それが最低最悪の結果をもたらしたと知らずに。

 

店長は無責任だった!

自分一人がいなくなっただけで回らなくなる店を構築し、店の維持のために我慢を重ねなければならないという状況を作り上げたのは、無責任とするしかないのである。店長は数十人の雇用を守るべき立場であり、店が近所から欠かせない存在になっている。

自分が居なければ店が成り立たないというのは、自分が頼られているという実感を得ることならばできても、自分がいないと成り立たないという環境に安住し、自分がいなくても成り立つ環境を作り上げないのは無責任とするしかないのだ。

自分がいなくても成り立つような環境を作り上げるのは一朝一夕で出来ることではないが、腰痛を放置せずに病院に行って早期に治療することはすぐにできる話だ。それを我慢して放置していたことは無責任とするしかない。店長は言うであろう。たいしたことないと思っていたと。しかし、結果は既に判明している。自身は長期入院、店で働いていた人たちは失業、近所の人たちは店の無い不便な暮らし。このような結末になったと思わなかったとしても、自分がいなくなったら困る人がいるという現状を放置し、自身の腰痛を我慢することを美徳と考えるのは、責任ある姿ではなく、無責任な姿であると言わざるをえないのである。

 

責任のために必要なこと

責任と我慢が両立するという考えは捨てなければならない。責任のためには我慢を捨てなければならないし、我慢に堪え忍び続けたければ無責任であり続けるしかない。我慢している姿は美徳では無く無責任な姿であり、我慢を強要する社会は無責任を是とする社会にすることが必要である。

とは言え、日本国においてそれは簡単にできる話ではない。日本国というのは、本来なら相反する概念である我慢と責任とを密接につなげて考える社会であり、我慢を無責任ではなく美徳と扱う風潮がある。責任を遂行するためと考えて無責任でしかない我慢し続ける姿を褒め称えておきながら、我慢の末に取り返しの付かない結末を迎えても自己責任の一言で片付けるか、あるいは、自分ではない誰かの責任ということにして糾弾する社会である。

その一方で、本当に責任を遂行するために我慢しないで自己管理をしている人に対しては無責任といい、自己管理のおかげで何事も起こらないようにしている人に対し、何事も起こさなかったということで褒め称えることもしない社会でもある。よくて5段階評価の3、下手すれば2か1の評価をする。「がんばっていない」というのがその理由だ。

この社会環境が生みだしたのが店長、店員、そして近所の人たちに襲った悲劇の原因である。

変えなければならないのは個人の心のありようではなく、社会概念である。

 

所謂「子供向け」について考えてみる

Short+αで何度かドリフターズについて話題にしているし、ウルトラマン仮面ライダーについても何度か話題にしているし、アニメをよく観ることから、私を「いい年齢して子供向けのコンテンツに偏向している」と思われることもある。

たしかに一般的なイメージはそうだろう。さらに漫画家もやっているし、漫画を読むことが多いというのが加わると、所謂「子供向け」が加速する。

ところが、ここで言う「子供向け」とは何なのだろうか、と考える。簡単に捉えていい話であろうか? と。

 

8時だヨ!全員集合が好きで、ドリフのメンバーや番組のスタッフのインタビューなどを読むことも多いのだが、その中のどこにも、子供向けを狙って番組を作ったとは書いていない。多くの子供達が自分たちの作る番組を楽しみにしてくれていたことは知っていても、それは自分たちの笑いを求めていった結果であり、子供をメインターゲットとした番組を作ったわけではないのである。

これは、ウルトラマンを生みだした円谷プロダクションであったり、仮面ライダーを生みだした東映も同じで、多くの子供が視聴者になるであろうことは考えていても、最初から子供が観ることを主軸として番組を作ったわけではない。

 

バラエティ番組であったり、特撮ドラマやアニメーションであったり、そうした番組が多くの子供の支持を受けることはあっても、支持を受けるコンテンツは断じて、子供向けを考えて作ったコンテンツではない。

自分たちが信じて作り出したコンテンツに対し、多くの子供が支持をするというとき、それらのコンテンツには一つの共通点がある。

それは、本物、ということ。

 

ここでいう、「本物」とは何か?

「子供だまし」の反意語としてもいい。

「これでいいだろう」ではなく、「自信を持ってこのコンテンツを送り出す」という意識がそこにはある。

8時だヨ!全員集合は笑いにこだわった。

ウルトラマン仮面ライダーはドラマにこだわった。

歴史に名を残すアニメーションのその物語や作画や声や音楽にこだわってきた。

そこに妥協は無かった。

妥協を見せない本物だからこそ、多くの人が支持した。その支持する人たちの中には多くの子供達もいた。子供達だけがファンだったのでは無い。子供達もファンの一部を構成していたのだ。

 

子供向けと扱われているコンテンツに対して嫌悪感を見せる人、さらには我が子をこうしたコンテンツから離して育てようとする人は多いし、そういう教師もいる。そして、そうした者が考える「子供受けのコンテンツ」は、そのほとんどにおいて子供からの人気がない。皮肉にも、子供向けを謳っているのに、肝心の子供達からは拒否反応を示されるのである。

要は、つまらない。おもしろくない。

教育に良いとか、健やかに育つとか考えているのであれば、それは独り善がりの、無益どころか有害でしかない愚行とするしかない。

 

子供は大人が考えているほど愚かでは無い。子供向けを前提としたコンテンツを喜んで受け入れるとすれば、それは、コンテンツの面白さではなく、コンテンツを受け入れている姿を大人に見せつけるための、フリである。

 

子供に受け入れることを考えるのであれば、子供向けであることを全く考えず、自らがやりたいことを、本物と呼ぶに値するレベルのコンテンツとして形作ることが必要である。

 

 

8時だョ!全員集合の作り方―笑いを生み出すテレビ美術

8時だョ!全員集合の作り方―笑いを生み出すテレビ美術

 

 

ドリフ大爆笑と幻の番組について考えてみる

BSフジで再放送が始まったドリフ大爆笑の初回をご覧になった方の中には、オープニングが「ド、ド、ドリフの……」ではなく、月月火水木金金の替え歌である「よ~る~だ、八時~だ……」になっていたのに気づいた方は多いであろうが、実は、ドリフターズ出演の番組のうち、オープニング曲として月月火水木金金の替え歌を用いたのはドリフ大爆笑がはじめてではない。

ドリフターズの代表作とも言える8時だョ!全員集合は昭和44(1969)年10月から昭和60(1985)年9月までの16年に渡って放送された番組であるが、実はその途中、半年に渡って放送を休止している。何が起こったのか?

昭和46(1971)年4月から半年間、TBS系の土曜夜8時からはクレイジーキャッツ主演の「8時だョ!出発進行」という番組を放送していた。そして、ドリフターズはその間、日本テレビ系列日曜夜7時放送の「日曜日だョ!ドリフターズ!!」に出演しており、同番組のオープニング曲として月月火水木金金の替え歌を用いていたのである。

つまり、ドリフ大爆笑の初回放送のオープニングは日曜日だョ!ドリフターズ!!の復活でもあったのだ。

 

それにしても、TBSはなぜ、半年に渡って8時だョ!全員集合というドル箱を手放したのか?

日本テレビはなぜ、ドリフターズを半年で手放したのか?

事務所は何を考えていたのか?

 

8時だョ!全員集合はどのように生まれたか?

昭和46(1971)年当時は渡辺プロダクションの3大スターという呼び名が登場していた。

の3ユニットである。

ただし、この呼び名はドリフターズ8時だョ!全員集合で成功を収めてからであり、それまでのドリフターズは、クレイジーキャッツの次と目される存在ではあっても、対等に評される存在ではなかった。実際、TBSで昭和44(1969)年4月から毎週土曜夜8時にドリフターズ主演の公開生放送番組を始めるという企画が立ち上がったとき、「土曜夜8時というチャンネルの命運を掛けた時間の主演は、実績のまだないドリフターズではなく、実績申し分無しのクレイジーキャッツを主演とすべき」という意見が続出したほどである。

これに対して奮起を見せたのがドリフターズとTBSの若き番組スタッフたちである。若きスタッフ達はそれまでドリフターズとともに、ドリフターズドン!(昭和42(1967)年)、進め!ドリフターズ(昭和43(1968)年)を経て、突撃!ドリフターズ(昭和44(1969)年)といった30分番組を作り上げてきており、実績を残してきていた。そして、若きスタッフ達は野望を抱くようになっていた。土曜夜8時からの1時間番組を製作するという野望である。この時代のTBSはどの曜日もどの時間帯も視聴率争いで勝つことが多かったが、土曜夜8時に限ってはどのような番組を送り出してもことごとく視聴率争いで敗れ去っていた。土曜夜8時というのはTBSのスタッフにとって、目の上のたんこぶとも言うべき歯痒さを感じさせるシンボルだったのである。

それまでの全ての挑戦が失敗してきているという現状の前に、TBSの編成局は若きスタッフ達からの挙手に応えることとした。昭和44(1969)年時点の土曜夜8時はフジテレビ系の「コント55号の世界は笑う」が視聴率争いの王者として君臨しており、フジテレビを除く全ての局がいかにしてコント55号と重ならないように番組を作り上げるかに苦心していたのであるが、若きスタッフ達は、あえてコント55号と重なる客層に訴え出るという提案をした。同じ客層に対して、アドリブを活かしたコント55号の笑いに対向するために、ドリフターズの計算されつくした笑いをぶつけるという提案であった。

この抜擢はTBSに成功をもたらした。視聴率14%でスタートした番組は、週を重ねるごとに視聴率を上げていき、昭和45(1970)年初頭には視聴率で土曜夜8時の絶対王者であったコント55号の世界は笑うを追い抜き、昭和45(1970)年3月にはコント55号の世界は笑うを放送終了に追い込むまでに至ったのである。その後も視聴率の上昇は止まることを知らず、昭和46(1971)年時点で視聴率25%の番組へと成長していた。

8時だョ!全員集合の半年間中断まで

8時だョ!全員集合の成功は他のチャンネルにとって驚異であった。いかにして土曜夜8時の番組を作り上げるかに苦悩してきた各局は、TBSの成功を何とかして自局でも取り入れることができないかと苦悩するようになった。

そんな中、日本テレビ渡辺プロダクションに一つの申し入れをしてきた。

ドリフターズの番組を日本テレビでも放送したい」

この申し出はさすがに耳を疑うものであったが、日本テレビからの申し出は冗談ではなかった。毎週日曜夜7時にドリフターズ主演の1時間の公開生放送番組を放送したいのでスケジュールを抑えてほしいというのである。

クレージーキャッツの代表作であり、個人活動が多くなっていたクレージーキャッツにとって数少ないユニットとしての出演番組であるシャボン玉ホリデーを放送してきたのが日本テレビである。シャボン玉ホリデーの放送時間帯は日曜夜6時半からの30分。シャボン玉ホリデーの30分と、ドリフターズの新番組の1時間を合わせた90分のバラエティ時間帯とするのが日本テレビの構想であった。

渡辺プロダクションとしては釈然としない内容であったが、日本テレビの社長まで出てくるとなると事務所側も無視できるものではなくなる。

 

無視できるものではないと言っても、渡辺プロダクション日本テレビの要請に応えるには簡単ではなかった。

ドリフターズ主演の8時だョ!全員集合がここまで成功したのは、ドリフターズ8時だョ!全員集合以外の全ての仕事を断っており、一週間の全てを8時だョ!全員集合に振り分けたことで得た結果なのである。アイデアを練り、小道具をつくり、大道具をつくり、稽古を重ね、本番当日の生放送に備えるというのが8時だョ!全員集合の成功の理由であり、このスケジュールはドリフターズだけでなく、番組スタッフも、8時だョ!全員集合に出演するゲストも同様に課せられていた。

このスケジュールに新しいスケジュールをつぎ込むのは無謀とするしか無かった。ドリフターズ主演の映画の撮影や、ドリフターズの曲のレコーディングをしているではないかという反論はあったが、それとて8時だョ!全員集合の稽古の空き時間を見つけてのスケジュールの詰め込みであり、ドリフターズは既に限界に達していたのである。

ここで日本テレビの要望に応えるには、ドリフターズ8時だョ!全員集合から切り離さなければならない。そして、ドリフターズのいなくなった8時だョ!全員集合の穴を埋めるにはドリフターズに匹敵するユニットを用意しなければならない。そんなユニットは無い。

ただ一つを除いて。

そのただ一つの例外がクレイジーキャッツであった。それも、クレイジーキャッツの全員に対し、それまでのドリフターズのスケジュールの制限を設けなければした上での話である。

日本テレビの社長まで登場してきた要請に対する渡辺プロダクションからの回答は、

というものであった。

日本テレビ渡辺プロダクションの要望を全て受け入れた。

 

TBSはなぜドル箱を手放したのか

8時だョ!全員集合の成功を手放しで喜んでいたところで浴びせられた突然の知らせにTBSは驚愕した。特に、8時だョ!全員集合のスタッフたちは自分たちの作り上げてきた番組がこのような形で奪われることに我慢ならず、プロデューサーは辞表を提出する直前まで至っていた。

その思いを留まらせたのは、スタッフの誇りであった。

いかに日本テレビが総力を尽くしたところで、ドリフターズを用意しただけでは8時だョ!全員集合にはならない。8時だョ!全員集合を作れるのは自分たちが欠かせないという誇りが思いを留まらせたのである。

さらに、ドリフターズの穴埋めとしてやってくるのがクレージーキャッツ。彼らも事情を熟知しており、ドリフターズの面々と接していたのと全く同じように接するように求めたことは若きスタッフ達を感動させた。それまで雲の上の存在と考えていたクレージーキャッツが全員揃ってドリフターズと同じようにアイデアを練り、小道具も大道具も用意し、稽古に励むのである。

純粋にビジネスだけで考えたとしても、ドリフターズ不在は痛いが、クレージーキャッツ独占は TBSの利益になる話であった。視聴率は充分に計算できる話である上に、スポンサーとの契約継続も可能であったのである。それに、話を持ちかけてきたのは日本テレビ渡辺プロダクションであって、TBSにとっては寝耳に水の話であるというのは全国に広まっている話である。同情を買う案件でこそあれ、非難を買う案件では無かった。

 

日本テレビの失敗

あの8時だョ!全員集合日本テレビにやってくる。しかも、クレージーキャッツ主演のシャボン玉ホリデーとセットとなって1時間30分のバラエティタイムをつくるということで、新番組「日曜日だョ!ドリフターズ!!」については大々的な宣伝が行われたが、世間からの評判は芳しいものではなかった。苦労して作り上げた8時だョ!全員集合を奪ったという見方をされていたのである。

それでも日本テレビの番組スタッフ達は懸命に応えたとするしか無い。ただ、ここには大きな落とし穴があった。

予算だ。

ドリフターズ8時だョ!全員集合で展開してきた笑いを他局で再現するためには、8時だョ!全員集合に掛けてきたのと同等、さらにはそれ以上の予算を用意しなければセットも作れないし、曲も用意できない。おまけに、8時だョ!全員集合のセットはスタッフ個人の技術力に拠っているところが多く、いかに日本テレビの番組スタッフが尽力してもどうにかなるものではない。

技術力の不足を予算で補った結果、日本テレビが日曜日だョ!ドリフターズ!!のために用意した予算は簡単に底をついてしまった。日本テレビの幹部は「こんなに金の掛かる番組なんかさっさとTBSに返してしまえ」と怒鳴ったというが後の祭りである。

ここに、クレージーキャッツが8時だョ!出発進行に専念するために他の仕事を断ったことに対する損失補填が加わる。それも踏まえた予算は前もって計上していたが、その事前計上は簡単に使い果たした。

日本テレビは各番組に予算削減を命じることとなった。それは、クレージーキャッツ主演のシャボン玉ホリデーも例外ではなく、クレージーキャッツ全員での出演ではなくクレージーキャッツの誰か一人が出演しているかどうかという番組に変貌した。

 

渡辺プロダクションの失敗

さて、ここまでの経緯をドリフターズ自身はどのように眺めていたのか?

一言で言うと、不信感、である。

ビジネスを考えてのことであると頭では理解しても、事務所とテレビ局の都合で自分たちがモノのように扱われてやりとりされることには納得いかなかったのである。それでも、事務所の先輩であるクレージーキャッツが奮闘してくれており、TBSのプロデューサーが辞表覚悟に局に掛け合ってくれた上に、自分たちがいない間も番組の質を維持してくれたことは感謝していた。

ただ、事務所に対する不信感はぬぐいきれるものではなかった。

結果、ドリフターズをはじめとする渡辺プロダクション所属の芸能人たちが何組か渡辺プロダクションから離脱し、のちのイザワオフィスを作り出すきっかけとなった。

 

さらに、「日曜日だョ!ドリフターズ!!」の失敗に加え、渡辺プロダクション製作の歌番組と日本テレビ製作の歌番組の時間が重なったこともあって、渡辺プロダクションに所属する芸能人が日本テレビ系列の番組に出演できなくなるまでになった。これはクレージーキャッツも例外ではなく、代表作であるシャボン玉ホリデーは昭和47(1972)年に最終回を迎えるに至った。

この時代、芸能人の半数が渡辺プロダクションに所属していたと言われ、渡辺プロダクションに頼らない番組作成は不可能であるとまで言われていた。その不可能とまで言われていた渡辺プロダクション無しでの番組製作が必要となった日本テレビは、渡辺プロダクションに頼らない番組製作を最終目的として、芸能人発掘番組である「スター誕生」を、「日曜日だョ!ドリフターズ!!」終了直後である昭和46(1971)年10月に開始させた。

また、渡辺プロダクション日本テレビとの対立をきっかけとし、渡辺プロダクションからジャニーズ事務所が名実ともに独立した。もともとジャニーズ事務所渡辺プロダクションの系列会社であったのだが、フォーリーブス郷ひろみといったスターの誕生に伴って独立色を強めてきていた。それでも、渡辺プロダクションに所属する芸能人の番組に出演をさせてもらう形での協力関係は維持していたのであるが、日本テレビとの決別まで話が至った渡辺プロダクションと同調せず、日本テレビとの協力関係は維持するべきとしたジャニーズ事務所は、このタイミングで渡辺プロダクションから名実ともに独立した。

 

ドリフ大爆笑の誕生

 

昭和46(1971)年10月、8時だョ!全員集合が復活。

中断前、視聴率25%で大騒ぎされていた8時だョ!全員集合であるが、復活後の8時だョ!全員集合の視聴率は25%どころの話ではなかった。昭和48(1973)年には視聴率50%を突破し、その後もコンスタントに視聴率40%台を叩き出すお化け番組へと成長したのである。

通常、年末年始となると特番が組まれるものであるが、特番よりも視聴率がとれるということで1月1日であろうと8時だョ!全員集合はそのまま放送されただけでなく、裏番組が8時だョ!全員集合であるという理由で、毎年1月1日に放送している番組を、1月2日に変更することも珍しくなくなった。

ただ、それだけの視聴率を稼ぐスターへと成長したドリフターズであるが、テレビ出演は極めて少なかった。前述の通り、8時だョ!全員集合に全てをつぎ込んではじめてこれだけの視聴率の番組が成立するという仕組みであるため、他の番組に出演するスケジュールが確保できなかったのである。

無茶を承知でスケジュールを突っ込むのは不可能であるというのは日本テレビが証明しており、誰もが、TBSが手放すまでドリフターズの番組を作ることは不可能であると諦めていた。

このとき、フジテレビが全く想定していなかった方法でドリフターズの番組を作ることに成功した。

まず、番組製作は渡辺プロダクションから独立したイザワオフィスが担当する。フジテレビで放送する番組ではあるが、テレビ局では無く芸能事務所の作成する番組であるため、他局の社員であるTBSの番組スタッフの協力を得ることが可能である。

さらに、番組製作会議にドリフターズはいっさい関与しない。台本も完成し、リハーサルも完了し、セット作成も全て終えた後からの時間だけをドリフターズのスケジュールとして確保するのである。

 

この番組はただ一つだけ、「日曜日だョ!ドリフターズ!!」から継承したものがあった。

オープニングである。

「日曜日だョ!ドリフターズ!!」のオープニングは月月火水木金金の替え歌である「よ~る~だ、七時~だ……」となっていたのを「よ~る~だ、八時~だ……」に変えたものであった。

もっとも、このオープニングは昭和52(1977)年限定であった。ドリフターズの五人は「ドリフ大爆笑 ’77」と昭和52(1977)年限定であることを示す法被を着て撮影しており、翌年には撮影し直しであることが宿命づけられていたのである。実際、昭和53(1978)年以降毎年のようにドリフ大爆笑はオープニングを変えていた。

もっともおなじみのあのオープニングに固定されたのは昭和58(1983)年のことである。

youtu.be