徳薙零己の備忘録

徳薙零己の思いついたことのうち、長めのコラムになりそうなことはここで

働くということについて考えてみる

働いて給料を貰うとはどういうことか?

 

あの議員について書くつもりはないと言っておきながら、あの議員の発言について考えさせられることがあったので、この記事を載せた。

 

給料を突き詰めて考えると、人生を引き受けることの対価ではないかと考えられるのだ。

 

孤島で一人きりで生活しているという人でもない限り、人は誰かの仕事をしてもらうことで人生を成立させている。自分で田畑を耕す代わりに農家の人が耕して収穫してくれたコメや農作物を買う。自分で服を作る代わりに服を作ってくれた人から服を買う。自分で家を建てる代わりに家を建ててくれた人から家を買う。無論、直接農家に支払うわけではなく、直接縫製工場に支払うわけでなく、直接建築現場で支払うわけではない。支払う相手はスーパーマーケットであったり、ショッピングモールであったり、不動産屋であったりするわけであるが、そこでの支払いは、生産者にもつながる。

田畑を耕す人は消費者の人生の一部である食を引き受けることの対価を得る。

縫製工場で働く人は消費者の人生の一部である衣を引き受けることの対価を得る。

建築現場で働く人は消費者の人生の一部である住を引き受けることの対価を得る。

スーパーマーケットで、ショッピングモールで、不動産屋で働く人もまた、食を、衣を、住を引き受けることの対価を得る。

生産から店舗に運ぶ人もまた同じだ。消費者の人生の一部を引き受け、消費者の手元に届くことを引き受けることの対価を得る。

全ての働く人は、何かしらの形で誰かの人生に関わり、誰かの人生を引き受け、その他以下を引き受ける。それは人生を引き受けることの責任に対する対価であるとしてもいい。

 

もし、人生を引き受けることの責任をとれないというのであれば、それは給与を受け取る資格を持たないということである。

もし、引き受けている人生の量に比べて受け取る給与が少ないというのであれば、それは支払う側が自らの人生の重さを認識していいないということである。

もし、人生を託すことを、そして、人生を引き受けることを拒否するのであれば、それは、この社会における自らの存在を喪失することを意味する。

 

働くということは、人生を引き受ける責任と、それに見合う対価との交換である。責任だけは許されない。対価だけも許されない。責任と対価の交換、それが、働くということである。