ドリフ大爆笑と幻の番組について考えてみる
BSフジで再放送が始まったドリフ大爆笑の初回をご覧になった方の中には、オープニングが「ド、ド、ドリフの……」ではなく、月月火水木金金の替え歌である「よ~る~だ、八時~だ……」になっていたのに気づいた方は多いであろうが、実は、ドリフターズ出演の番組のうち、オープニング曲として月月火水木金金の替え歌を用いたのはドリフ大爆笑がはじめてではない。
ドリフターズの代表作とも言える8時だョ!全員集合は昭和44(1969)年10月から昭和60(1985)年9月までの16年に渡って放送された番組であるが、実はその途中、半年に渡って放送を休止している。何が起こったのか?
昭和46(1971)年4月から半年間、TBS系の土曜夜8時からはクレイジーキャッツ主演の「8時だョ!出発進行」という番組を放送していた。そして、ドリフターズはその間、日本テレビ系列日曜夜7時放送の「日曜日だョ!ドリフターズ!!」に出演しており、同番組のオープニング曲として月月火水木金金の替え歌を用いていたのである。
つまり、ドリフ大爆笑の初回放送のオープニングは日曜日だョ!ドリフターズ!!の復活でもあったのだ。
それにしても、TBSはなぜ、半年に渡って8時だョ!全員集合というドル箱を手放したのか?
事務所は何を考えていたのか?
8時だョ!全員集合はどのように生まれたか?
昭和46(1971)年当時は渡辺プロダクションの3大スターという呼び名が登場していた。
の3ユニットである。
ただし、この呼び名はドリフターズが8時だョ!全員集合で成功を収めてからであり、それまでのドリフターズは、クレイジーキャッツの次と目される存在ではあっても、対等に評される存在ではなかった。実際、TBSで昭和44(1969)年4月から毎週土曜夜8時にドリフターズ主演の公開生放送番組を始めるという企画が立ち上がったとき、「土曜夜8時というチャンネルの命運を掛けた時間の主演は、実績のまだないドリフターズではなく、実績申し分無しのクレイジーキャッツを主演とすべき」という意見が続出したほどである。
これに対して奮起を見せたのがドリフターズとTBSの若き番組スタッフたちである。若きスタッフ達はそれまでドリフターズとともに、ドリフターズドン!(昭和42(1967)年)、進め!ドリフターズ(昭和43(1968)年)を経て、突撃!ドリフターズ(昭和44(1969)年)といった30分番組を作り上げてきており、実績を残してきていた。そして、若きスタッフ達は野望を抱くようになっていた。土曜夜8時からの1時間番組を製作するという野望である。この時代のTBSはどの曜日もどの時間帯も視聴率争いで勝つことが多かったが、土曜夜8時に限ってはどのような番組を送り出してもことごとく視聴率争いで敗れ去っていた。土曜夜8時というのはTBSのスタッフにとって、目の上のたんこぶとも言うべき歯痒さを感じさせるシンボルだったのである。
それまでの全ての挑戦が失敗してきているという現状の前に、TBSの編成局は若きスタッフ達からの挙手に応えることとした。昭和44(1969)年時点の土曜夜8時はフジテレビ系の「コント55号の世界は笑う」が視聴率争いの王者として君臨しており、フジテレビを除く全ての局がいかにしてコント55号と重ならないように番組を作り上げるかに苦心していたのであるが、若きスタッフ達は、あえてコント55号と重なる客層に訴え出るという提案をした。同じ客層に対して、アドリブを活かしたコント55号の笑いに対向するために、ドリフターズの計算されつくした笑いをぶつけるという提案であった。
この抜擢はTBSに成功をもたらした。視聴率14%でスタートした番組は、週を重ねるごとに視聴率を上げていき、昭和45(1970)年初頭には視聴率で土曜夜8時の絶対王者であったコント55号の世界は笑うを追い抜き、昭和45(1970)年3月にはコント55号の世界は笑うを放送終了に追い込むまでに至ったのである。その後も視聴率の上昇は止まることを知らず、昭和46(1971)年時点で視聴率25%の番組へと成長していた。
8時だョ!全員集合の半年間中断まで
8時だョ!全員集合の成功は他のチャンネルにとって驚異であった。いかにして土曜夜8時の番組を作り上げるかに苦悩してきた各局は、TBSの成功を何とかして自局でも取り入れることができないかと苦悩するようになった。
そんな中、日本テレビが渡辺プロダクションに一つの申し入れをしてきた。
この申し出はさすがに耳を疑うものであったが、日本テレビからの申し出は冗談ではなかった。毎週日曜夜7時にドリフターズ主演の1時間の公開生放送番組を放送したいのでスケジュールを抑えてほしいというのである。
クレージーキャッツの代表作であり、個人活動が多くなっていたクレージーキャッツにとって数少ないユニットとしての出演番組であるシャボン玉ホリデーを放送してきたのが日本テレビである。シャボン玉ホリデーの放送時間帯は日曜夜6時半からの30分。シャボン玉ホリデーの30分と、ドリフターズの新番組の1時間を合わせた90分のバラエティ時間帯とするのが日本テレビの構想であった。
渡辺プロダクションとしては釈然としない内容であったが、日本テレビの社長まで出てくるとなると事務所側も無視できるものではなくなる。
無視できるものではないと言っても、渡辺プロダクションが日本テレビの要請に応えるには簡単ではなかった。
ドリフターズ主演の8時だョ!全員集合がここまで成功したのは、ドリフターズが8時だョ!全員集合以外の全ての仕事を断っており、一週間の全てを8時だョ!全員集合に振り分けたことで得た結果なのである。アイデアを練り、小道具をつくり、大道具をつくり、稽古を重ね、本番当日の生放送に備えるというのが8時だョ!全員集合の成功の理由であり、このスケジュールはドリフターズだけでなく、番組スタッフも、8時だョ!全員集合に出演するゲストも同様に課せられていた。
このスケジュールに新しいスケジュールをつぎ込むのは無謀とするしか無かった。ドリフターズ主演の映画の撮影や、ドリフターズの曲のレコーディングをしているではないかという反論はあったが、それとて8時だョ!全員集合の稽古の空き時間を見つけてのスケジュールの詰め込みであり、ドリフターズは既に限界に達していたのである。
ここで日本テレビの要望に応えるには、ドリフターズを8時だョ!全員集合から切り離さなければならない。そして、ドリフターズのいなくなった8時だョ!全員集合の穴を埋めるにはドリフターズに匹敵するユニットを用意しなければならない。そんなユニットは無い。
ただ一つを除いて。
そのただ一つの例外がクレイジーキャッツであった。それも、クレイジーキャッツの全員に対し、それまでのドリフターズのスケジュールの制限を設けなければした上での話である。
日本テレビの社長まで登場してきた要請に対する渡辺プロダクションからの回答は、
- 日本テレビでのドリフターズの番組は半年間限定であり、半年間のドリフターズの後任はクレイジーキャッツとする。
- クレイジーキャッツの全員に対しドリフターズと同等のスケジュール制限を設ける。
- 半年間、クレージーキャッツは、映画、ドラマ、歌番組などの全ての仕事ができなくなる。それはクレージーキャッツ全員が揃う仕事に限らず、個人の仕事も含まれる。
- 仕事を入れることができなくなることによる損失は日本テレビが補填する。
- シャボン玉ホリデーについては現状のままとする。
というものであった。
TBSはなぜドル箱を手放したのか
8時だョ!全員集合の成功を手放しで喜んでいたところで浴びせられた突然の知らせにTBSは驚愕した。特に、8時だョ!全員集合のスタッフたちは自分たちの作り上げてきた番組がこのような形で奪われることに我慢ならず、プロデューサーは辞表を提出する直前まで至っていた。
その思いを留まらせたのは、スタッフの誇りであった。
いかに日本テレビが総力を尽くしたところで、ドリフターズを用意しただけでは8時だョ!全員集合にはならない。8時だョ!全員集合を作れるのは自分たちが欠かせないという誇りが思いを留まらせたのである。
さらに、ドリフターズの穴埋めとしてやってくるのがクレージーキャッツ。彼らも事情を熟知しており、ドリフターズの面々と接していたのと全く同じように接するように求めたことは若きスタッフ達を感動させた。それまで雲の上の存在と考えていたクレージーキャッツが全員揃ってドリフターズと同じようにアイデアを練り、小道具も大道具も用意し、稽古に励むのである。
純粋にビジネスだけで考えたとしても、ドリフターズ不在は痛いが、クレージーキャッツ独占は TBSの利益になる話であった。視聴率は充分に計算できる話である上に、スポンサーとの契約継続も可能であったのである。それに、話を持ちかけてきたのは日本テレビと渡辺プロダクションであって、TBSにとっては寝耳に水の話であるというのは全国に広まっている話である。同情を買う案件でこそあれ、非難を買う案件では無かった。
日本テレビの失敗
あの8時だョ!全員集合が日本テレビにやってくる。しかも、クレージーキャッツ主演のシャボン玉ホリデーとセットとなって1時間30分のバラエティタイムをつくるということで、新番組「日曜日だョ!ドリフターズ!!」については大々的な宣伝が行われたが、世間からの評判は芳しいものではなかった。苦労して作り上げた8時だョ!全員集合を奪ったという見方をされていたのである。
それでも日本テレビの番組スタッフ達は懸命に応えたとするしか無い。ただ、ここには大きな落とし穴があった。
予算だ。
ドリフターズが8時だョ!全員集合で展開してきた笑いを他局で再現するためには、8時だョ!全員集合に掛けてきたのと同等、さらにはそれ以上の予算を用意しなければセットも作れないし、曲も用意できない。おまけに、8時だョ!全員集合のセットはスタッフ個人の技術力に拠っているところが多く、いかに日本テレビの番組スタッフが尽力してもどうにかなるものではない。
技術力の不足を予算で補った結果、日本テレビが日曜日だョ!ドリフターズ!!のために用意した予算は簡単に底をついてしまった。日本テレビの幹部は「こんなに金の掛かる番組なんかさっさとTBSに返してしまえ」と怒鳴ったというが後の祭りである。
ここに、クレージーキャッツが8時だョ!出発進行に専念するために他の仕事を断ったことに対する損失補填が加わる。それも踏まえた予算は前もって計上していたが、その事前計上は簡単に使い果たした。
日本テレビは各番組に予算削減を命じることとなった。それは、クレージーキャッツ主演のシャボン玉ホリデーも例外ではなく、クレージーキャッツ全員での出演ではなくクレージーキャッツの誰か一人が出演しているかどうかという番組に変貌した。
渡辺プロダクションの失敗
さて、ここまでの経緯をドリフターズ自身はどのように眺めていたのか?
一言で言うと、不信感、である。
ビジネスを考えてのことであると頭では理解しても、事務所とテレビ局の都合で自分たちがモノのように扱われてやりとりされることには納得いかなかったのである。それでも、事務所の先輩であるクレージーキャッツが奮闘してくれており、TBSのプロデューサーが辞表覚悟に局に掛け合ってくれた上に、自分たちがいない間も番組の質を維持してくれたことは感謝していた。
ただ、事務所に対する不信感はぬぐいきれるものではなかった。
結果、ドリフターズをはじめとする渡辺プロダクション所属の芸能人たちが何組か渡辺プロダクションから離脱し、のちのイザワオフィスを作り出すきっかけとなった。
さらに、「日曜日だョ!ドリフターズ!!」の失敗に加え、渡辺プロダクション製作の歌番組と日本テレビ製作の歌番組の時間が重なったこともあって、渡辺プロダクションに所属する芸能人が日本テレビ系列の番組に出演できなくなるまでになった。これはクレージーキャッツも例外ではなく、代表作であるシャボン玉ホリデーは昭和47(1972)年に最終回を迎えるに至った。
この時代、芸能人の半数が渡辺プロダクションに所属していたと言われ、渡辺プロダクションに頼らない番組作成は不可能であるとまで言われていた。その不可能とまで言われていた渡辺プロダクション無しでの番組製作が必要となった日本テレビは、渡辺プロダクションに頼らない番組製作を最終目的として、芸能人発掘番組である「スター誕生」を、「日曜日だョ!ドリフターズ!!」終了直後である昭和46(1971)年10月に開始させた。
また、渡辺プロダクションと日本テレビとの対立をきっかけとし、渡辺プロダクションからジャニーズ事務所が名実ともに独立した。もともとジャニーズ事務所は渡辺プロダクションの系列会社であったのだが、フォーリーブスや郷ひろみといったスターの誕生に伴って独立色を強めてきていた。それでも、渡辺プロダクションに所属する芸能人の番組に出演をさせてもらう形での協力関係は維持していたのであるが、日本テレビとの決別まで話が至った渡辺プロダクションと同調せず、日本テレビとの協力関係は維持するべきとしたジャニーズ事務所は、このタイミングで渡辺プロダクションから名実ともに独立した。
ドリフ大爆笑の誕生
昭和46(1971)年10月、8時だョ!全員集合が復活。
中断前、視聴率25%で大騒ぎされていた8時だョ!全員集合であるが、復活後の8時だョ!全員集合の視聴率は25%どころの話ではなかった。昭和48(1973)年には視聴率50%を突破し、その後もコンスタントに視聴率40%台を叩き出すお化け番組へと成長したのである。
通常、年末年始となると特番が組まれるものであるが、特番よりも視聴率がとれるということで1月1日であろうと8時だョ!全員集合はそのまま放送されただけでなく、裏番組が8時だョ!全員集合であるという理由で、毎年1月1日に放送している番組を、1月2日に変更することも珍しくなくなった。
ただ、それだけの視聴率を稼ぐスターへと成長したドリフターズであるが、テレビ出演は極めて少なかった。前述の通り、8時だョ!全員集合に全てをつぎ込んではじめてこれだけの視聴率の番組が成立するという仕組みであるため、他の番組に出演するスケジュールが確保できなかったのである。
無茶を承知でスケジュールを突っ込むのは不可能であるというのは日本テレビが証明しており、誰もが、TBSが手放すまでドリフターズの番組を作ることは不可能であると諦めていた。
このとき、フジテレビが全く想定していなかった方法でドリフターズの番組を作ることに成功した。
まず、番組製作は渡辺プロダクションから独立したイザワオフィスが担当する。フジテレビで放送する番組ではあるが、テレビ局では無く芸能事務所の作成する番組であるため、他局の社員であるTBSの番組スタッフの協力を得ることが可能である。
さらに、番組製作会議にドリフターズはいっさい関与しない。台本も完成し、リハーサルも完了し、セット作成も全て終えた後からの時間だけをドリフターズのスケジュールとして確保するのである。
この番組はただ一つだけ、「日曜日だョ!ドリフターズ!!」から継承したものがあった。
オープニングである。
「日曜日だョ!ドリフターズ!!」のオープニングは月月火水木金金の替え歌である「よ~る~だ、七時~だ……」となっていたのを「よ~る~だ、八時~だ……」に変えたものであった。
もっとも、このオープニングは昭和52(1977)年限定であった。ドリフターズの五人は「ドリフ大爆笑 ’77」と昭和52(1977)年限定であることを示す法被を着て撮影しており、翌年には撮影し直しであることが宿命づけられていたのである。実際、昭和53(1978)年以降毎年のようにドリフ大爆笑はオープニングを変えていた。
もっともおなじみのあのオープニングに固定されたのは昭和58(1983)年のことである。