徳薙零己の備忘録

徳薙零己の思いついたことのうち、長めのコラムになりそうなことはここで

戦略と戦術の失敗について考えてみた

戦略と戦術とはどう違うのでしょうか?

簡単にまとめると

・目標到達に至るまでの筋道の総称=戦略

・目標到達までの一つ一つの筋道=戦術

です。

 

戦略と戦術の全般的なまとめについては書いている途中なのですが、その中で、戦略と戦術の失敗についてわかりやすい例が現れましたのでここで記します。

既に話題になっています、茅ヶ崎市長選挙での桂秀光候補のこれです。

 

学校の前で街頭演説をしている桂秀光候補に対し学校関係者が苦情を述べたところ、選挙妨害だという反論を展開したことで話題になっています。

公職選挙法では以下のように定めています。

第百四十条の二 何人も、選挙運動のため、連呼行為をすることができない。ただし、演説会場及び街頭演説(演説を含む。)の場所においてする場合並びに午前八時から午後八時までの間に限り、次条の規定により選挙運動のために使用される自動車又は船舶の上においてする場合は、この限りでない。
2 前項ただし書の規定により選挙運動のための連呼行為をする者は、学校(学校教育法第一条に規定する学校及び就学前の子どもに関する教育、保育等の総合的な提供の推進に関する法律第二条第七項に規定する幼保連携型認定こども園をいう。以下同じ。)及び病院、診療所その他の療養施設の周辺においては、静穏を保持するように努めなければならない。

つまり、努力義務なので守らなくても公職選挙法違反にはならないのですが、戦略としても、戦術としても、桂秀光候補は絶望的な失敗をしているのです。

それは何か?

迷惑行為です。騒音を撒き散らし、通行を邪魔し、日常生活を破壊する迷惑行為はたしかに注目を集めますが、同時に反感を招きます。その反感は、自らの主義主張が正しいという訴えを届けることを簡単にかき消します。「迷惑だけど良いことを言っている」という感情ではなく「良いことかどうかなど関係なく、ただただ迷惑だ」という批判的な感情を招くだけです。

選挙において、こうした感情を招くことは、得票につながらないばかりか批判票を招き寄せます。仮に現職と桂秀光候補の二人しかおらず、かつ、現職に対する激しい反発を見せている世論があるなら。現職を落選させるという目的で桂秀光候補に投票することもありえますが、批判的な感情を招いてしまったら、「この人物に投票するなら、悪評高くても現職の方がマシだ」という感情を招き出すのです。

それでもこのように考える人がいるかもしれません。

迷惑だろうと何だろうと、注目を集めることは自らの訴えたいことの主張を広めるためには効果があるではないか、と。さらに言えば、「落選する可能性が高くても主張を伝える効果があるなら意味がある」「当落は関係ない。何より大切なのは主張を伝えることのほうだ」と。

しかも、この考えは人類史上で何度か成功しているのです。インドの独立運動南アフリカアパルトヘイト撤廃、あるいはアメリカの公民権運動もこの例に加えるべきでしょうか。

こうした運動は全て当初は迷惑行為でした。迷惑行為と考えられ、批判的な論評を呼び起こし、多くの反発も招きました。しかし、時間経過とともにその主張が訴えられ、インドは独立を果たし、アメリカは人種差別が禁止され、南アフリカアパルトヘイトが無くなりました。

 

ただ、これらの運動と桂秀光候補の今回の行動とは絶望的な違いがあります。

迷惑行為だという訴えに対する態度です。迷惑だと歌える多くの声があったとき、成功した運動は迷惑行為を止めています。重要なのは主義主張を訴えることであって、迷惑という訴えに対する反発は排除していません。それどころか、自らの迷惑行為を止めた上で、迷惑行為を止めるよう訴える人達に対して迷惑行為を謝すると同時に主義主張を訴えているのです。そして、自分たちが訴えようとしていることは特権を求めての行動ではなく、失われている権利を取り戻すための行動であると納得させたのです。自分たちの受けている植民地支配に正当性があるのかと考えさせ、当たり前と考えている区別はそもそも許されざる差別なのではないかと振り返らせる効果を持っていたのです。

桂秀光候補にそれはありません。それどころか自らの行為を迷惑だという訴えに耳を傾けてすらいません。ただただ自らの主張を喧伝するのみならず、迷惑という訴えに対しては謝意ではなく非難を加えています。

このような態度は、新しい支持を集めるどころか既に獲得している支持を失わせるだけです。

 

このような違いはどこから生まれるのでしょうか?

簡単です。他者をどう見ているかです。

迷惑だという訴えに耳を傾ける人は、自分のことを知的エリートだと考えていません。仮に考えていたとしても他者もまた自分と代わらぬ水準の知性の持ち主であると考えています。自分に主張することがあるように、自分に文句を言う人にも主張があることを納得しています。意見の違いはあるが意見を受け入れ合うことはできると考えているのです。

耳を傾けない人は、自分を知的エリートと信じて疑いません。自分は正しくて相手は間違っていると信じて疑いません。自分に対する反発は愚者が知的エリートである自分に見せる許されざる反発であり、撲滅して屈服させる以外の選択肢が許されないことだと考えているのです。桂秀光候補が今回の行動を全て計算でしていたのだとすれば、その計算は間違った計算だと言うしかありません。そもそもそのような考えを持っていなかったのだとすれば、ただ単に頭が悪いだけです。

 

今回の茅ヶ崎市長選挙で、話題の桂秀光候補は最下位で落選しました。

茅ヶ崎市に限ったことではありませんが、有権者は候補者が考えているような愚者ではないのです。それを忘れた戦略と戦術の選択は、必ず失敗します。