徳薙零己の備忘録

徳薙零己の思いついたことのうち、長めのコラムになりそうなことはここで

鬼滅の刃に対する論評の過去との類似性について考えてみる

令和に生きる多くの人が体験している。令和2(2020)年11月、劇場版「鬼滅の刃」 無限列車編が上映開始からわずか一ヶ月で230億円の累計興行収入を記録し*1、コラボレーション企画も含む経済効果が数千億円に達している*2ことを体験している。

もともと鬼滅の刃週刊少年ジャンプに連載されていた作品であり*3、令和元(2019)年より東京MXテレビジョン等でテレビ放送された作品であった*4週刊少年ジャンプでの連載を勝ち取り、アニメ化まで果たしたのであるから鬼滅の刃は文句なしに成功した作品であると断言できる。だが、鬼滅の刃はこれまでのヒット作を超えるムーブメントを生みだした。鬼滅の刃の単行本が書籍販売数ランキングを独占し*5、第70回NHK紅白歌合戦には鬼滅の刃の主題歌を歌うLiSAが出場して鬼滅の刃の主題歌である紅蓮華を熱唱した*6のみならず、紅白歌合戦の舞台でLiSA氏の背景に鬼滅の刃の映像が流された。いかなる大ヒット作品であろうとここまでの現象は起こっておらず、鬼滅の刃の残した諸々の実績は全て前代未聞のことである。

鬼滅の刃のブームは日常生活の中に重要な位置を占めるようになり、そして現在の劇場版の大ヒットを招いていることはもはや誰も否定できない。どんなにアニメを観ない人であろうと、どんなに漫画を嫌悪する人手あろうと、鬼滅の刃の生みだしたムーブメントから逃れることができなくなっているのが令和2(2020)年の日本国である。

と同時に、明らかに時代についていけなくなった人が、自らの体面を保つために斜に構えた記事を世に送り出している。鬼滅の刃の原作を楽しみ、テレビを楽しみ、映画を楽しんでいる人に対して、上から目線で的外れな論評している記事である。

このことを苦々しく感じている人は数多くいるであろう。

これは何も現在に始まった話では無い。作品こそ違えど、今から四半世紀前に誕生したこの作品についても起こっていた話である。

 

1995年~1997年に起こったこと

平成7(1995)年10月、その作品は数多くのアニメ作品の一つとして始まった。インターネットの普及率は低く、ネット上SNSはまだ存在せず、世論の多くは口コミとマスメディアによって形成されていた。
その作品はアニメーション雑誌では取り上げられることがあったものの、その他のメディアでの取り扱いはほぼ無かったといってもよい。ほぼ、と書き記すには理由があり、年が明けた平成8(1996)年1月、放送のちょうど折り返し地点を迎えた頃、読売新聞の1月22日にアニメーション雑誌以外で最初に言及した記事が見られるからである。

その作品を、新世紀エヴァンゲリオンという。

今でこそテレビ放送の最終回が話題となっているが、平成8(1996)年当時、本放送を見ていない人の間でエヴァンゲリオン話題となったのは、同年6月、エヴァンゲリオンのサントラCDが初登場でオリコン1位になったことに端を発する。時代は小室ファミリーの全盛期であり、小室ファミリーの次に何が来るかというのも話題になっていた。サントラCDがオリコンで1位を獲得したことで、小室ファミリーの次はアニメーションだという切り口からの雑誌記事が散見されるようになった。この段階ではじめてエヴァが社会現象として認知されたとすべきであろう。

エヴァンゲリオンのブームは夏になるとさらに加速することになる。CDが売れたことに始まり、原作単行本が爆発的に売れるようになったこと、箱根などのエヴァの舞台となった場所へ出かける若者が増えていることなどが話題になると、テレビや雑誌と言ったメディアで本格的にエヴァンゲリオンが取り上げられることとなる。

さらに映画化が発表されるとブームはニュースの素材となり、テレビや雑誌でエヴァンゲリオンが取り上げられるようになったのだが、ここで大問題が起こった。雑誌記者やテレビ出演者の中にまともにエヴァンゲリオンを見ていない人がいなかったのだ。現在のようにNETFLIXなどのようなネット配信なども存在せず、この段階ではまだ再放送もされていないとなると、録画していた人に全話視聴させてもらったあとでエヴァンゲリオンについてあれこれ語るか、そもそも観ていない状態であれこれ語るかとなる。

こうした現象に対し、別冊宝島330「アニメの見方が変わる本」の中で、ライターの諏訪弘氏は辛辣な一言を書き記している。

諏訪氏は平成9(1997)年6月時点で入手可能な全ての新聞、雑誌、書籍におけるエヴァンゲリオンについての言及をまとめており、いかに詳しく説明しているか、いかに斬新な切り口でエヴァンゲリオンを分析しているかを評している。*7

「『ヤマト』『ガンダム』に次ぐ第三の衝撃」としてエヴァンゲリオン特集記事を組んだキネマ旬報(1997年3月号)や、庵野監督へのインタビュー記事を2号連続で掲載するなど長期に渡ってエヴァンゲリオンを特集したクイックジャパンについてはかなり高い評価をしている。実際の記事に目を通してもライター自身がエヴァンゲリオンを視聴した上で記事を書いていることがわかる。

しかし、ブームだからという理由で慌てて記事を組んだような雑誌に対しては辛口の論評を記している。

オヤジ向けの解説。「大人の鑑賞にも耐える」という点を強調している。特に観るべき分析はない。

筆者の論旨がつかめない。肯定なのか、否定なのか? いやそもそも筆者はエヴァをきちんと見たことがあるのか?

取り残された者が、それでも体面を取り繕わねば、という悲壮感ばかりが漂う、別の意味で面白い紙面。

 

こうした評価に当時のエヴァンゲリオンブームの渦中にあった人は喝采した。言いたかったことをありのままに書いたことに賛同した。

メディアの的外れな論説や解説は鬱陶しかった。新世紀エヴァンゲリオンという作品を楽しみ、そのブームに乗り、映画を楽しみにしているのに、作品をロクに観てもいない人が上段から諭すようにあれこれ論評するのが鬱陶しかった。その論評の内容に耳を傾ける価値があるならまだしもそのような価値などなく、自らの知を伸ばす側面でもあるのかと思えばそれもないのが鬱陶しかった。自分より頭の悪い中高年が、エヴァンゲリオンを理解する知性も無いままに、ブームに乗っているエヴァンゲリオンを下からの上から目線であれこれ言うのが鬱陶しかった。

エヴァンゲリオンブームの渦中にあった人の多くは自分の未来について明瞭なイメージを掴むことはできていなかったが、ああいう鬱陶しさの出す側にはなりたくないという思いは一致していた。

 

それから四半世紀後の現在起こっていること

ブームがまさに起こっているとき、ブームについていけなくなった人が上から目線であれこれ言うのは人類の歴史上何度となく繰り返されてきたことであり、エヴァンゲリオンがそうであったように鬼滅の刃でも同じことが起こっている。

鬼滅の刃のブームに乗っている人にとっては鬱陶しいことこの上ないであろうが、おそらく、論評している人は鬱陶しさを生みだしていると全く感じていない。自分はまっとうな論評をしていると思っているし、その論評によって自らの知性と社会的地位を確立できたと考えている。

論評したい気持ちはわかる。論評して愉悦に浸るのもわかる。だが、その前に踏みとどまっていただきたい。

四半世紀前の酷評をもう一度繰り返すのか、と。