徳薙零己の備忘録

徳薙零己の思いついたことのうち、長めのコラムになりそうなことはここで

1時間2980円について考えてみる

最近、1時間2980円のマッサージ店が増えてきている。

肩こりであったり、腰の張りであったりと、身体の疲れを癒やしてくれるマッサージ店自体は以前から存在していたが、その値段が目に見えて下がってきているのだ。

 

安くなることは消費者としてありがたいことと思うかもしれないが、ここにはきわめて大きな問題がある。

その料金設定で従業員にまともな給与が支払われるのか、という点である。

 

TKCの調査によると、マッサージ店の人件費は売上の54.4%である。マッサージというのは1人の施術師が1人の顧客と応対するため、1人あたり1時間2980円というのは、施術師の1時間あたりの売上が2980円ということである。その54.4%が人件費ということは、時給にすると1621円。アルバイトの時給と比べると高いと思うかもしれないが、年収で考えると324万円である。

仮に年2回のボーナスがあったとしても年収が400万円を越えることは難しい。

 

ところが、実際に1時間2980円の店の人材募集要項を見てみるとこうなっている。

平日/10:00~20:59・・・・(60分)1800円~
平日/21:00~23:59・・・・(60分)2000円~
平日土日祝24時以降・・・(60分)2200円~
指名料・・・・・・・・・・200円

 

recruit.hogushiya-ikoi.com

 

いったいどういうことなのか?

 

そこで調べてみたところ、面白い事実が出てきた。

 

まず、先に人件費率が54.4%であると示したが、では、残る45.6%は何なのか?

通常の事業では、売上から原価を引き、家賃や設備の維持費、さらには広告費といった販管費(販売費及び一般管理費)を引き、人件費を引いて残った利益(営業利益)が業界平均の数値を出さないと話にならない。マッサージ店におけるその水準は5%であり、マッサージ店は5%の利益率を維持できるか否かが事業継続可否の分かれ目となっている。

1時間2980円で上記の時給を出した上で5%の営業利益を出すとなると、1800円だと34.6%、2000円では27.89%、2200円では21.17%が原価と販管費に回せる金額となる。

 

これで原価を販管費を出せるのだろうか?

 

結論から言うと、出せる。前述の人件費を出したままで営業利益5%は捻出可能なのだ。

 

マッサージ店の原価はさほど高いものではない。消耗品としてはマッサージ時に使用するオイル程度で、タオルや着替えは洗濯で再利用可能、ベッド等の設備も原価と言うよりは設備費である。初期投資費用は要するが原価とするほどではない。ゆえに、原価を抑えることでの販売価格抑制は不可能である。

だが、販管費に目を向けるとどうか?

家賃や光熱費を抑えることは可能なのだ。

店を大きくした上に郊外に店舗を構えた上で従業員を増やすと、従業員一人あたりの販管費を減らすことが可能となる。

 

とは言え、1日8時間、週40時間労働の全てを時給2200円で計算しても年収は440万円である。これは時給2200円の年2000時間勤務で計算した数値であり、実際の年収はもっと低くなる。

これで従業員をつなぎ止めることが出来るであろうか? 最低賃金よりははるかに高い給与であるとは言え、給与所得者の平均給与水準よりは低いのである。

 

ビジネスモデルとして成立させるため、1時間2980円の店はそもそも従業員をつなぎ止めるという概念を捨てている。1時間2980円の店で働く際に、従業員として契約するのではなく、業務委託契約をするのである。店は店舗の設備を貸し出し、料金の徴収を代行して、手数料を取った余りを施術師に支払っているのである。

この形態にすると、従業員を社員とさせないことによる店側の負担を減らすことが可能となる一方、従業員にとっては正社員としての安定を獲得できない上に、年金は国民年金、保険は国民保険となる。現在の労働状況の悪化の一環としてよく見られる光景である。ただし、正社員ではなく業務委託形態であるために、正社員に求められる時間の制約は多少であるが猶予がある。

 

私はここに一つのチャンスを見る。

従業員として、子育て中であるためにフルタイムの仕事ができない人と業務委託契約を結んだらどうなるか、あるいは、無年金高齢者と業務委託契約を結んだらどうなるか、と。

子育てに追われるために8時間労働が困難な人に対し、子を保育園に預けている間の勤務契約を結んだらどうなるか? 欲を言えば、店に保育園や託児所が併設されていたらどうなるか?

あるいは、年金を納めたくても納めることができなかったがために無年金のまま定年を迎えてしまった高齢者と、施術師として業務委託契約を結んだらどうなるであろうか?

さらに言えば、年金支給開始年齢が遅れることは目に見えている。定年年齢が70歳、75歳と上がったとしても、定年を迎えてから年金を受け取るまでの帰還の空白が存在する可能性は高い。このときの職業の一環としてマッサージ店の施術師というのは選択肢の一つとして認められるのではないであろうか?

 

1時間2980円の店は、安いマッサージを提供するビジネスモデルである。と同時に、行政が介入することによって、働きたくても働くことのできない人に対する働く場を提供する場所へと変化させることができるのではないか?

 

いわゆる「お上」について考えてみる

権力者を「お上(おかみ)」と考え、権力に対する抵抗をレーゾンデートルとする人たちがいる。第四の権力と見なされる人たちだ。

愚かな権力者が圧政を敷いているのが現在社会であるというモデルを示し、圧政を敷く「お上」に対決する正義の自分という姿に自らのアイデンティティを置いている彼らは、自分のことを庶民の代弁者であると考え、庶民は自分の後ろに付き従う存在と捉えている。庶民はすべからく「お上」に抵抗すべき存在であると考え、「お上」に従う庶民を愚鈍な存在と見なし、そうした庶民に対する啓蒙が自らに課せられた役割であると考えている。

 

情報化社会が誕生する前まで、この第四の権力は絶大なものがあった。三権を覆すこともあったのだ。

この第四の権力に対し、情報化社会が第五の権力を生み出した。まさに第四の権力が啓蒙の対象と見ていた庶民が、情報化社会の到来によって第五の権力の所有者となり、権力の監視を前提とするメディアが逆に監視の対象となり、権力の嘲笑を前提とする風刺は、風刺者自身の嘲笑を生み出すにいたった。

 

かつては、第四の権力は庶民の側に立ったエリートであるという認識があった。だが、第五の権力を手にした多くの人は、その認識が誤りであると気づいた。第四の権力はエリートではなくノーメンクラトゥーラだったと気づいたのだ。

 

啓蒙の対象と第四の権力が考える庶民という存在は、第四の権力が考えているほど愚かではなく、それぞれに異なる考えを持つ存在である。第四の権力に身を置いている人にとっては認めたくないことであろうが、知性も、教養も、一般常識も、第四の権力が第五の権力を圧倒しているわけではない。むしろ上回っている。

第四の権力の提供するコンテンツである、新聞、雑誌、ラジオ、テレビの全てで、コンテンツ受容者の数、定期購読者数であったり、販売部数であったり、テレビ視聴率であったりといったコンテンツ受容者の数が減ってきているのも、第四の権力の提供するコンテンツが第五の権力である庶民の知的欲求を満たす存在に至っていないからである。

下品とか、くだらないとかの声が直接第四の権力に届けられるならまだマシで、第四の権力のもとに何の声も届かないまま、庶民が第四の権力から離れている。現在進行形で離れていっている。これが現在起こっていることである。

 

「お上」に逆らうことにレーゾンデートルを感じている人にとっては認めたくないことかもしれないが、第四の権力こそが今や「お上」になっている。第五の権力にとっては、三権よりも、第四の権力のほうが目障りな「お上」であり、「お上」に従って行動する愚鈍な存在は第四の権力、そして、その第四の権力に従う側のほうになっている。

第四の権力にある人は言うであろう。「権力者に抵抗しよう」と。

第五の権力にある人は言う。「その抵抗すべき権力とは第四の権力のほうである」と。

 

第五の権力---Googleには見えている未来

第五の権力---Googleには見えている未来

 

 

マイナス票についてまとめてみる

この記事の最後で述べた、選挙におけるマイナス票についてまとめてみた。

tokunagi-reiki.hatenablog.com

 

中世のヴェネツィア共和国では、選挙でマイナス票を投じることができた。

どういう仕組みになっていたかと言うと、こういう感じ。

 

普通、選挙というのは当選させたい人に一票を入れるものだが、ヴェネツィア公和国では、落選さえたい人に一票入れることもできた。

例として、定数3で、立候補者が5名の選挙があるとする。なお、わかりやすくするために選挙権を持っている人は100人とする。

A、B、C、D、Eの5名の候補者がいて、それぞれの得票が下記の通りであると

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普通の選挙であれば、A候補、B候補、C候補の3名が当選する。

 

だが、ヴェネツィア共和国ではプラス票だけではなくマイナス票もあった。一票を当選させたい候補者へのプラス票として使用するか、落選さえたい候補者へのマイナス票として使用するかを有権者が選べたのである。

仮に「どうしてもC候補を落選させたい」という思いを抱いている人がたくさんいたとして、プラス票しか投票できない場合は、「C候補のライバルになりそうなE候補に投票する」、あるいは、「消去法で一番マシなA候補に投票する」という選択をすることとなる。

ところが、マイナス票が可能となるとこうなる。

 

100人の有権者がそれぞれ、下図のような投票をしたとする。 

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まず、プラス票よりマイナス票が多いC候補が外れる。「C候補を落選させたい」という想いはここで結実する。

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その上で、プラス票の多い候補から3名が当選する。

重要なのは、プラスマイナスの合計で決めるのではなく、合計がプラスになる候補者の中からプラス票の多い順に当選者を決めるのである。

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例としてプラス票とマイナス票の釣り合いを考えた表にしたが、実際のヴェネツィア共和国の選挙ではこのようなことがあった。

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マイナス票があまりにも多く、

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合計するとマイナスになる候補者を除外すると、定数を割り込んだのである。

こうなると、候補者の選定からやり直しとなった。

 

 

働くということについて考えてみる

働いて給料を貰うとはどういうことか?

 

あの議員について書くつもりはないと言っておきながら、あの議員の発言について考えさせられることがあったので、この記事を載せた。

 

給料を突き詰めて考えると、人生を引き受けることの対価ではないかと考えられるのだ。

 

孤島で一人きりで生活しているという人でもない限り、人は誰かの仕事をしてもらうことで人生を成立させている。自分で田畑を耕す代わりに農家の人が耕して収穫してくれたコメや農作物を買う。自分で服を作る代わりに服を作ってくれた人から服を買う。自分で家を建てる代わりに家を建ててくれた人から家を買う。無論、直接農家に支払うわけではなく、直接縫製工場に支払うわけでなく、直接建築現場で支払うわけではない。支払う相手はスーパーマーケットであったり、ショッピングモールであったり、不動産屋であったりするわけであるが、そこでの支払いは、生産者にもつながる。

田畑を耕す人は消費者の人生の一部である食を引き受けることの対価を得る。

縫製工場で働く人は消費者の人生の一部である衣を引き受けることの対価を得る。

建築現場で働く人は消費者の人生の一部である住を引き受けることの対価を得る。

スーパーマーケットで、ショッピングモールで、不動産屋で働く人もまた、食を、衣を、住を引き受けることの対価を得る。

生産から店舗に運ぶ人もまた同じだ。消費者の人生の一部を引き受け、消費者の手元に届くことを引き受けることの対価を得る。

全ての働く人は、何かしらの形で誰かの人生に関わり、誰かの人生を引き受け、その他以下を引き受ける。それは人生を引き受けることの責任に対する対価であるとしてもいい。

 

もし、人生を引き受けることの責任をとれないというのであれば、それは給与を受け取る資格を持たないということである。

もし、引き受けている人生の量に比べて受け取る給与が少ないというのであれば、それは支払う側が自らの人生の重さを認識していいないということである。

もし、人生を託すことを、そして、人生を引き受けることを拒否するのであれば、それは、この社会における自らの存在を喪失することを意味する。

 

働くということは、人生を引き受ける責任と、それに見合う対価との交換である。責任だけは許されない。対価だけも許されない。責任と対価の交換、それが、働くということである。

炎上商法について考えてみる

炎上商法はビジネスとして有効なのか?

単に敵を増やすだけではないのか?

 

結論から記すと、有効である。

 

どういうことか?

 

ビジネスの基礎は顧客を創り出し顧客を維持することである。

仮に99%を敵に回すこととなっても、確実に計算できる1%を顧客として創出し維持することに成功すれば、ビジネスとしては有効である。

 

スマートフォンを操作しているときに不意に広告に触れてしまい、広告先のサイトに飛んで行ってしまった、あるいはアプリのダウンロードサイトに飛ばされてしまったという経験のある人はいるだろう。

これを多くの人が不満に感じる。

そして、こう考える。

「何でこんなことをするのか」

と。

 

広告先のサイトに飛ばしたり、アプリのダウンロードサイトに飛ばしたりする仕組みを作った企業、そして、そのサイト先の企業に対して不満を持つ人は多い。企業には不満の声も寄せられる。しかし、企業はその不満に対して応えることはしない。

なぜか?

その企業にとって、99%の不満はどうでもいいことなのだ。広告先のサイトに飛んでしまった、アプリのダウンロードサイトに飛んでいってしまった人のうち、1%が反応して、その企業にお金を落とすのであれば、企業倫理として許されるかどうかはともかく、企業のビジネスモデルとして無くはない。

どんな卑怯な手段であろうと、それが悪評に由来するものであろうと、99%の不満を捨てた上で1%の顧客を獲得できれば、そして、その1%の人がお金を落としてくれるなら、企業としてはそれでいいのである。それが企業倫理として許されないことであるという批判も、その企業の耳には入らない。

 

もっとも、純然たるビジネスの世界で炎上商法は通じないようになっている。

 

少し前、CSR(企業の社会的責任)という言葉が叫ばれていた。

現在、ESG(環境、社会、企業統治)という言葉が叫ばれるようになってきている。

そして、ESGでの企業統治には99%の意見を無視しないという点も含まれる。

炎上商法により迷惑を被る99%の人の声を無視することが許されなくなってきているのが現在の企業に対して向けられている。

 

ところが、ビジネスの世界には存在する自浄作用が働かない炎上商法が通用する世界が存在するのだ。

それは、政治の世界。

 

多くの人が実感するであろうが、選挙カーや街頭演説は単なる騒音でしかなく、あれを聴いてその人に投票しようという気は起こらない。しかし、選挙の当選という一点だけを考えれば選挙カーも街頭演説も有効である。99%の不満を集める行動をしても1%の支持を確実にできれば当選は可能なのだ。

 

仮に人口10万人の市があり市議会議員選挙に立候補すると仮定してみよう。選挙カーや街頭演説で10万人のうち9万9000人がその立候補者に不満を持ったとしても、残る1%、1000人の支持を集めることができれば、市議として,トップ当選はともかく当選券に食い込むことはできる。無論、1000人の全員が有権者であるとは限らないから1000票の得票が期待できるわけではないが、それでも半分が投票したとして500票あれば、人口10万の都市で市議として当選することは不可能ではない。

実際、およそ人口10万人の大阪府泉佐野市の市議会議員選挙で、464票の得票で当選した市議がいる。あくまでも数字上は、市民の99%の不満を集めていたとしても、市議になれるわけである。

※この市議が市民の99%から不満を集めているというわけではなく、あくまでも数字上はそうだと言っているだけです。

 

現在の選挙の仕組みは問題が多々あるが、その問題の一つに、99%の不支持を反映させる手段がないことが挙げられる。有権者の99%が我々の代表として相応しくないと言っているのに、残る1%の得票があるために99%の意見が無視されることが、現在の選挙の仕組みとして存在している。

 

この炎上商法を利用した政治家がいる。

と言っても、現在進行形で騒がれているあの女性代議士のことではなく、こいつ。 

わが闘争(上下・続 3冊合本版) (角川文庫)

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よく、ナチスは民主主義によって成立した政権だという言われ方をするが、政党としてのナチスの支持率は決して高いものではなかった。

ナチス国家社会主義ドイツ労働者党)が政権を握るまでの5回の選挙での主な政党の得票率と獲得議席数をまとめると下記の表の通りとなる。

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ここで注目していただきたいのが、当初は泡沫政党であったこと。それが、得票率20%を越え、30%を越え、40%を越えるまでに成長した。

成長したが、50%は越えていない。当時のドイツ人はナチスを熱狂的に迎え入れたわけではなく、得票率過半数を許すことがなかったのである。

普通に考えれば過半数の支持を集めているわけではないのだから政権をとるなど出来ないはずである。さらに言えば、当時のドイツ人はナチスに対する反感を持っていた。過半数のドイツ人が反感を抱いていたのである。だが、当時のドイツには、その過半数の反感の声を国政に反映する仕組みが存在しなかった。

このときのドイツは単純な比例代表制である。ナチスに反発を見せたとしても、ナチス議席を獲得することを妨げる仕組みがなかったのだ。ナチスが泡沫政党であった頃、それこそ、得票率が3%似満たない政党であった頃は98%のドイツ人がナチスに反感を抱いていたが、その98%の意思を無視して議会に議員を送り込むことができる仕組みになっていたのだ。

ナチスはそれを利用した。

どんなに批判を集めようとそれを無視し、過激な主張を繰り返し、炎上商法で注目を集め、自分たちへの支持をする人を増やして選挙に挑み、選挙を重ねることで政権を掴み取ることに成功したのである。

歴史にIFは厳禁ということになっているが、仮に当時のドイツに、過激な主張をして、それこそ炎上商法で着目を浴びるような泡沫政党に対し、炎上商法にNOを突きつける多数の声を反映させる仕組みがあったならば、ナチスは迷惑な泡沫政党として名を残しただけで自然消滅し、あのような悲劇は生まれなかったであろう。

 

現在のドイツは、得票率5%を基準として泡沫政党を切り捨てる仕組みが出来ている。それが完璧というわけではないが、少なくとも99%の否定の声を無視するような仕組みではない。炎上商法であろうと着目を集めて限られた支持を獲得することで権力を掴むという仕組みを許さないようになっている。

だが、今の日本の選挙制度は、一人のみが当選する選挙を除き、過激な主張を繰り返す泡沫を切り捨てる仕組みが存在しない。それこそ、99%の不満を集めていても、99%の不満の声が政治に反映されるようにはなっていないのである。

 

では、99%の不満の声を政治に反映させる方法はないのか?

ある。それもいくつか。

たとえばアメリカやイギリスでしているような小選挙区制は一つの手段であるが、私はここで、中世のヴェネツィア共和国で実践していたマイナス票制度を提唱したい。

 

選挙権を持つ人は、代表に相応しい人にプラス1票入れるか、代表に相応しくない人にマイナス1票を入れるかのどちらかを選べるのである。その上で、プラス票がマイナス票より多かった人、つまり、代表に相応しいと考えた人より相応しくないと考えた人のほうが多い候補者は、どれだけ得票を得ていたとしても落選決定。その上で、残った人のうちプラス票の多い人から当選者が決まっていくという仕組みである。

 

意見の多様性は認めるべきである。だが、大多数の人が否定しているという意見を無視するようでは意見の多様性とは言えない。

評判管理について考えてみる

評判について考えさせられる二冊の本がある。

 

一冊は、ダニエル・ディアマイアー氏の著書『「評判」はマネジメントせよ』(阪急コミュニケーション,2011)

「評判」はマネジメントせよ 企業の浮沈を左右するレピュテーション戦略

「評判」はマネジメントせよ 企業の浮沈を左右するレピュテーション戦略

  • 作者: ダニエル・ディアマイアー,Daniel Diermeier,フィリップ・コトラー,Philip Kotler,斉藤裕一
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もう一冊は、ジェイン・メイヤー氏の著書「ダーク・マネー」(東洋経済新報社,2017)

 

ダーク・マネー

ダーク・マネー

 

 

前者は企業がどのような悪評を受け、どのように対応したことで悪評を押さえ込むことに成功したか(あるいは失敗したか)が記されているのに対し、後者には悪評がどのようなメカニズムで生まれるのかが記されている。それも、後者の生み出される悪評は、悪評に成長してしまった評判ではなく、当初から悪評となるべく創出された悪評である。

前者は、環境や人命に関わる評判であったり、あるいは差別問題に関わる評判であったりしたのが悪評へと発展して企業や個人に大打撃を与えることとなったが、後者は情報を不充分に吟味することで最初から意図して悪評となるべく評判を生みだしている。両者ともに嘘を言っているわけではない。ただ、前者は真実なのに対し、後者は真実の重要な部分を隠して悪評を生み出すのに必要な情報だけを残し、解釈をねじ曲げ、いかに悪評が生み出している。

 

企業であったり、個人であったり、このような悪評が自分に向けられたとき、対処方法は三つある。

一つは、悪評の根拠になっている証拠を受け入れ、適切な対応を取ること。真摯な対応を見せることで評判を取り戻すケースは意外と多い。悪評の根拠を示している人に直接会い、その悪評が事実であると認め、誰もが見ている場でそれまでの責任と今後の対応を示すというのは、一時的に大きなダメージを受けることとなるが、長期的には信頼の回復につながる。

さらに言えば、責任を示し、反省を示し、対応策を示していてもなお悪評を繰り返している人のほうが今度は悪評を受ける立場となる。

 

しかし、それが必ずしも正しい対応であるとは言えない。特に、悪評のほうが間違っている、少なくとも真実ではない評判であるというとき、その評判に従う義務はないし、信頼の回復を取り戻したとしても、悪評の根拠のほうが間違っているときに悪評に従っていてはむしろマイナスになる。

悪評を否定する客観的証拠を示すこと。特に後者のケースで見られる情報の不充分さに対し、全ての情報を公開することによって悪評そのものが間違った解釈であるという評判を生み出すことは、評判管理としてきわめて有効である。(そして、意図した悪評を生みだした者にとっては致命的な打撃となる)

とは言え、前者のような悪評の場合、それは難しいのは事実である。『環境に問題がある』『明らかな差別が見られる』『人命にかかわる話である』という証拠を伴った悪評に対するのに必要なのは『環境に問題なし』『差別には該当しない』『人命への影響は皆無である』という証拠を示さねばならないのである。これは難しいが、成功した場合の効果は極めて高い。何の問題も無いことが示されたとき、悪評を生みだした、そして、悪評をぶつけていた側は、為していた攻撃を上回る攻撃を受けることとなる。

 

そして、対処方法のもう一つが、沈静化するのを待つ。

人の噂も75日とは言うが、実際にはもっと早い段階で悪評は小さくなる。しかし、小さくなるのであって消えるのではない。悪評の火はくすぶり続けるし、忘れ去られることのなかった悪評は簡単に蘇り、再び攻撃を、それも以前より激しい攻撃を示すようになる。

さらに言えば、悪評で傷ついた信頼は元に戻らない。悪評をそのままにしていたとしても、元の信頼を取り戻すことはない。転落のスピードを遅らせることができるだけである。

それでも元の信頼を取り戻せないにしても、完全に転落しきるわけではないのだ。そして、絶頂期を取り戻すとまでは言わないにせよ、底辺からの再起は不可能ではなくなる。

 

悪評を受けたときに絶対にやってはいけないのが、悪評を向けている人間に対して感情的に対応すること。悪評を向けている人間は決して支持を集めることがないが、悪評に感情を持って対応している人間もまた支持を集めることはない。

 

人は本質的に、誰かの悪口を言う人間を好ましく思わない。

悪評というのは悪口を言われることである。その悪口を言う人に対して、感情的な悪口で相手にするというのは、好ましからざる人物に自分自身を堕してしまうことを意味する。

悪評が発生したときに為すべきことは、悪評をぶつけている人間よりも上位に立つことである。悪評をぶつけている人物のほうを非難されるべき対象とさせるようにするのは、評判管理という点でわりと有効な手段である。

上西小百合の暴言について考えてみる

7月15日(土)に埼玉スタジアムで開催された浦和レッドダイヤモンズvsボルシア・ドルトムントの試合後に、衆議院議員上西小百合Twitterに書き込んだ内容が波紋を呼んでいる。

90分間真剣に戦った選手達に対する敬意の欠片もないこの発言に対する反発は強く、数多くの批判が寄せられているが、これに対し、上西小百合は謝罪も反省も見せることなくこのような反応を示している。

批判の多くは当然ながら浦和レッドダイヤモンズのサポーターからのものであるが、それに対する上西小百合の対応は、当初はこう。

 次に、街頭演説を浦和で実施するという話になり

 

となった。

上西小百合は当初、浦和レッドダイヤモンズのサポーターだけが批判を向けているのだと考えていたようであるが、選手たちに対する敬意の無さについては、浦和レッドダイヤモンズという一つのサッカークラブに留まらず、サッカー選手、そして、サッカーを愛する全ての人に対する批判を招くこととなった。 

そして、この暴言へと繋がる。

 

今後どのような動きを見せるのか。普通に考えれば「明日以降の動きに興味のあるところである」と締めくくるところであるが、実は全く興味が無い。より正確に言えば、上西小百合に何の興味を持てないし、上西小百合などどうでもいい。

明日以降何かあるかもしれないが、それにつきあうつもりは毛頭無い。