徳薙零己の備忘録

徳薙零己の思いついたことのうち、長めのコラムになりそうなことはここで

平成30年12月9日の天皇杯決勝を振り返ってみて

平成30年12月9日18時、天皇杯 JFA 第98回全日本サッカー選手権大会決勝が埼玉スタジアムで始まった。

すでに各所で取り上げられているが、今回の決勝戦天皇杯としては異例なことが重なった。

まず、AFCアジアカップ2019が来年1月5日にUAEで始まることは以前から決まっていた。既に第94回大会(平成26(2014)年)が、翌年1月9日に開会されるAFCアジアカップ2015に合わせて、決勝戦の日程を翌年1月1日ではなく12月13日に変更したという実績がある。そのため、決勝戦を翌年1月1日ではなく12月中に開催することはかなり早い段階で決まっていた。

また、通常であれば国立競技場が決勝戦の会場であるが、東京オリンピックにあわせた改築工事で使用できないため、決勝戦の会場を各都道府県のサッカー協会から募っていた。

国立競技場改築工事期間中の決勝戦会場は、過去4大会、各都道府県サッカー協会の推薦をもとに以下の通りと決まっていた。

第94回大会:日産スタジアム(72,327人:神奈川県サッカー協会)
第95回大会:味の素スタジアム(49,970人:東京都サッカー協会)
第96回大会:市立吹田サッカースタジアム(39,694人:大阪府サッカー協会)
第97回大会・埼玉スタジアム(63,700人:埼玉県サッカー協会)

第98回大会は第97回大会に引き続き、埼玉県サッカー協会の推薦した埼玉スタジアム2○○2が決勝戦の会場と決まった。この時点で準決勝の開催は12月16日、決勝戦の開催予定は12月24日であった。

このままであれば問題は無かったのだが、日本サッカー協会は見落としがあった。

アジアチャンピオンズリーグを制覇したクラブが準決勝以上に進出した場合、天皇杯の準決勝と決勝の日程が、FIFAクラブワールドカップの日程(12月12日開幕、12月22日決勝)と重複するのである。

その危惧は、鹿島アントラーズアジアチャンピオンズリーグを制覇したことで現実なものとなった。鹿島アントラーズ天皇杯準決勝にも進出しているため、天皇杯準決勝を12月5日、天皇杯決勝を12月9日に変更することとなったのである。

 

ところが、12月9日はさいたま国際マラソンの開催日であった。しかも、マラソンコースには埼玉スタジアムが含まれていた。

この結果、シャトルバスでの埼玉スタジアムへの移動が完全に止まった。埼玉スタジアムでサッカーの試合を開催するとき、通常であれば、JR浦和駅、JR北浦和駅、JR東浦和駅東武岩槻駅東武北越谷駅から埼玉スタジアムまでのシャトルバスが走っているのだが、その全てがマラソンの影響で運転中止。公共交通機関埼玉スタジアムに行くには埼玉高速鉄道浦和美園駅に行き、そこから徒歩で埼玉スタジアムに行くしか無くなった。

埼玉高速鉄道の混雑はある程度想像つく話であるが、浦和駅から鉄道だけで浦和美園駅までに行くには、浦和駅から南浦和駅までJR京浜東北線南浦和駅から東川口駅までJR武蔵野線東川口駅から浦和美園駅まで埼玉高速鉄道となる。この、JR京浜東北線、JR武蔵野線の両路線も大混雑となった。

 

天皇杯Jリーグカップ(現在はルヴァンカップ、かつてはナビスコカップ)の決勝戦は中立地開催である。たしかに今回は埼玉スタジアムを本拠地とする浦和レッズが決勝戦に臨んだが、だからといって特別扱いは無い。観客の入場開始は試合開始の三時間前。浦和レッズJリーグの本拠地として使用するとき、ビジュアルサポートのために入場開始前の準備が認められることもあるが、それはいっさい無い。

たとえば、試合開始前に私が「3Dだよ、おい!」と叫んだこれも、

 入場開始後から試合開始までの3時間で準備を終えたものである。

しかも、機械ではなく携帯電話でタイミングを計った上での人力である。

 

 たしかに埼玉スタジアムの構造をサポーターが知り尽くしているというのもあるが、レッズサポーターが何かしらの便宜を図ってもらったというわけではない。

 

今回の決勝戦の会場が埼玉スタジアムであることに対し、中立地での開催ではないという意見もあるし、理論上が中立地であっても現実は中立地ではなかったという意見もあるが、実際にスタジアムに足を運んだ人は、そこまで浦和レッズが優遇されていたとか特別な配慮が施されていたとかは感じないであろう。

この写真だけではわからないかもしれないが、ベガルタ仙台サポーターからはかなりの迫力とかなりの清涼が埼玉スタジアムに届いていた。

たしかに場所は埼玉県であったし、試合会場も浦和レッズが普段から使用している埼玉スタジアムであった。ただ、南側ゴール裏はベガルタ仙台サポーターが埋め尽くし、指定席もベガルタ仙台サポーターが数多く詰めかけていた。

私の投稿での映像から想像つくと思うが、私が座った場所は指定席の中でも南側である。天皇杯決勝やJリーグカップ決勝の指定席は、浦和レッズJリーグACLでの試合と違い、浦和レッズサポーターもベガルタ仙台サポーターも双方とも購入可能であるとはなっているものの、通例であれば、やはり浦和レッズサポータのほうが多いものである。これまでJリーグカップ天皇杯決勝で同様の席に座ったことがあるが、浦和レッズ側のゴール裏から遠い席であっても、周囲を見渡せば浦和レッズサポーターばかりというのがいつもの光景であった。

ところが、今回の天皇杯決勝はベガルタ仙台サポーターがかなり多かった。はっきり言えばベガルタ仙台サポーターの黄色に囲まれていた。

 

スタジアムが完全に真っ二つに分かれていて、交通の便で見ても両クラブのサポーターが公平であるというのは中立地開催として最高の条件かもしれないが、現実にそれは難しい。しかし、日曜日のベガルタ仙台サポーターはハンデを背負いながら可能な限り中立地開催に近い雰囲気を作り上げていたし、浦和レッズサポーターはホームをホームとして使用できない制約が課されながら可能な限りホームの雰囲気を作り上げていた。

両クラブのサポーターがそれぞれに課された制約の中で最大限のサポートをした結果は素晴らしいの一言だったと言えるのではなかろうか。

失敗からの克服について考えてみた

人間は誰しも失敗するものです。失敗しないということは存在し得ず、仮に失敗が存在しないとすれば、それは失敗しないのではなく失敗を隠していることに成功しているだけなのです。

失敗は損失を生むだけでなく、人生を破滅に導き、ときに命に関わる問題を引き起こします。だからこそ失敗は恐れるべき存在なのですが、どのようにすれば失敗を未然に防ぎ、失敗を克服できるのでしょうか?

 

その答えは一様ではありません。しかし、ある程度のパターンは見られます。

少なくとも、失敗からの克服をする仕組みは以下のパターンを包括しています。

 

1.失敗した当事者に関わらせない

失敗した当事者に対して「なぜ失敗したのか」などと問い合わせるのはメリットが全くありませんが、これはよく見られます。最悪なパターンとなると、失敗した当事者を会議に呼び出して質問攻めにし、書面にして書き起こすよう命じることがあります。

なぜ失敗した当事者を追い詰め、さらに仕事を増やさせるのでしょうか? 失敗した理由は様々なれど、失敗した人に共通していることが一つだけあります。それは、失敗した人に余裕はもう存在しなくなっていること。元々余裕が無いために失敗したという人もいますし、失敗したという事実に直面して余裕を失っている人もいます。そのどちらも、余裕を持っていないということでは共通しています。

その上でなぜ、失敗した当事者にさらに仕事を増やさせるのでしょうか? 余裕を失っている人にさらに負荷を背負わせて何をさせようと言うでしょうか? 失敗したことの責任を取らせるなどと、あるいは教育のためだなどと考える人がいるかもしれませんが、それは制裁にはなっても教育にはなりませんし、それ以前に、そんなもの失敗からの克服には何の役にも立ちません。

さらに、当事者を失敗の克服に関わらせると、当事者であるがゆえのバイアスがかかります。意識的にせよ無意識にせよ自らの行動を隠し、あるいは矮小化し、場合によっては拡大化させます。そもそも、自分のことを客観的に捉えることのできる人はいません。しかし、失敗の克服のために必要なのは、どのような失敗が起こったかという客観的な事実なのです。当事者が関わるということは客観的な事実からむしろ遠ざかることになるのです。

事件や事故が起こったときに第三者委員会が設置されたというニュースを聞いたことのある人は多いでしょうけど、この第三者委員会というシステムは当事者を関わらせないための仕組みです。

 

2.失敗の原因を突き止める

なぜ失敗したのかという原因を突き止めなければ同じ失敗を繰り返すこととなります。

ただし、前述の通り、原因追及のために当事者に関わらせることは認められません。あくまでも第三者が、起こった失敗は何であるかを見つけ、その失敗はどうして発生したのかを検出することが重要です。

ここで注意しなければならないのは、失敗の原因は本人の気の緩みなどという精神論で片付けてしまうことです。そんなものは失敗の原因でも何でもありません。気の緩みで起こる失敗などありません。仮にそのようなものが存在するとすれば、気の緩みで失敗が起きてしまうようなシステムのほうに問題があります。

失敗の原因に人間の意識など一切依存しません。ましてや、気をつけるなどと言うレベルで解決するものではありません。どのような心境であろうと起こってしまうところに原因の本質があります。

原因が見つかれば、その原因を無くせば失敗を繰り返すことが無くなることを意味します。失敗があることを前提としたシステムでは、いつでも客観的な原因究明ができる仕組みを整えています。飛行機におけるブラックボックスはそのいい例といえるでしょう。

 

3.失敗の原因が起こせない仕組みを作る

失敗の原因を突き止めたら、今度は原因を起こさせない仕組み作りです。

ここで重要なのは、強引に原因を消すことです。間違えても「気をつける」などと本人の意識に依存させたり、「複数人でチェックする」などと仕事を増やして原因を起こさせない仕組みとできたと思ったとすれば、信じられないレベルの脳天気さです。

失敗の原因を強引に起こさせない仕組みとは、人間が意識しなくても勝手に原因が消えている仕組みのことです。機械的に失敗できなくなっていたり、失敗の原因となる部品を必要としない仕組みを作り上げたりと、意識して失敗させようとしない限り失敗が起こらない仕組みを作り上げることです。

失敗の原因を起こせない仕組みの出来の指標は、失敗が起こる前より人間のこなす仕事量が減っているかどうかです。失敗したくてもできない仕組みを作り上げ、その上で、人間のこなす仕事量が減ってはじめて、失敗の原因を起こせない仕組みは完成したと評価に値します。

失敗の原因を起こさせない仕組みを作ったせいで人間のこなすべき仕事が増えることがあるかもしれませんが、そのときは、増えた以上の仕事を減らせるようになっている必要があります。一つ増えたら二つ減り、二つ増えたら四つ減りと、最低でも、増えた仕事より減った仕事のほうが二倍は存在しないと意味がありません。

 

失敗の克服に失敗するパターン

失敗の克服に失敗するパターンとは、上記の裏返しです。

失敗した当事者に、失敗の原因を追及させ、失敗の原因は本人の意識の問題にあるとし、失敗を防ぐために仕事を増やす。よく見られる光景ですが、そのような光景を展開している環境では、失敗の克服どころか失敗の再発を繰り返すだけです。

 

 

失敗の克服のまとめ

失敗したとき、二度と失敗しないよう克服するためには

○第三者

○精神論では無い原因を見つけ

○失敗の原因を起こせない仕組みを作り

○以前より仕事が減る

という手順が必要なのです。

 

戦略と戦術の失敗について考えてみた

戦略と戦術とはどう違うのでしょうか?

簡単にまとめると

・目標到達に至るまでの筋道の総称=戦略

・目標到達までの一つ一つの筋道=戦術

です。

 

戦略と戦術の全般的なまとめについては書いている途中なのですが、その中で、戦略と戦術の失敗についてわかりやすい例が現れましたのでここで記します。

既に話題になっています、茅ヶ崎市長選挙での桂秀光候補のこれです。

 

学校の前で街頭演説をしている桂秀光候補に対し学校関係者が苦情を述べたところ、選挙妨害だという反論を展開したことで話題になっています。

公職選挙法では以下のように定めています。

第百四十条の二 何人も、選挙運動のため、連呼行為をすることができない。ただし、演説会場及び街頭演説(演説を含む。)の場所においてする場合並びに午前八時から午後八時までの間に限り、次条の規定により選挙運動のために使用される自動車又は船舶の上においてする場合は、この限りでない。
2 前項ただし書の規定により選挙運動のための連呼行為をする者は、学校(学校教育法第一条に規定する学校及び就学前の子どもに関する教育、保育等の総合的な提供の推進に関する法律第二条第七項に規定する幼保連携型認定こども園をいう。以下同じ。)及び病院、診療所その他の療養施設の周辺においては、静穏を保持するように努めなければならない。

つまり、努力義務なので守らなくても公職選挙法違反にはならないのですが、戦略としても、戦術としても、桂秀光候補は絶望的な失敗をしているのです。

それは何か?

迷惑行為です。騒音を撒き散らし、通行を邪魔し、日常生活を破壊する迷惑行為はたしかに注目を集めますが、同時に反感を招きます。その反感は、自らの主義主張が正しいという訴えを届けることを簡単にかき消します。「迷惑だけど良いことを言っている」という感情ではなく「良いことかどうかなど関係なく、ただただ迷惑だ」という批判的な感情を招くだけです。

選挙において、こうした感情を招くことは、得票につながらないばかりか批判票を招き寄せます。仮に現職と桂秀光候補の二人しかおらず、かつ、現職に対する激しい反発を見せている世論があるなら。現職を落選させるという目的で桂秀光候補に投票することもありえますが、批判的な感情を招いてしまったら、「この人物に投票するなら、悪評高くても現職の方がマシだ」という感情を招き出すのです。

それでもこのように考える人がいるかもしれません。

迷惑だろうと何だろうと、注目を集めることは自らの訴えたいことの主張を広めるためには効果があるではないか、と。さらに言えば、「落選する可能性が高くても主張を伝える効果があるなら意味がある」「当落は関係ない。何より大切なのは主張を伝えることのほうだ」と。

しかも、この考えは人類史上で何度か成功しているのです。インドの独立運動南アフリカアパルトヘイト撤廃、あるいはアメリカの公民権運動もこの例に加えるべきでしょうか。

こうした運動は全て当初は迷惑行為でした。迷惑行為と考えられ、批判的な論評を呼び起こし、多くの反発も招きました。しかし、時間経過とともにその主張が訴えられ、インドは独立を果たし、アメリカは人種差別が禁止され、南アフリカアパルトヘイトが無くなりました。

 

ただ、これらの運動と桂秀光候補の今回の行動とは絶望的な違いがあります。

迷惑行為だという訴えに対する態度です。迷惑だと歌える多くの声があったとき、成功した運動は迷惑行為を止めています。重要なのは主義主張を訴えることであって、迷惑という訴えに対する反発は排除していません。それどころか、自らの迷惑行為を止めた上で、迷惑行為を止めるよう訴える人達に対して迷惑行為を謝すると同時に主義主張を訴えているのです。そして、自分たちが訴えようとしていることは特権を求めての行動ではなく、失われている権利を取り戻すための行動であると納得させたのです。自分たちの受けている植民地支配に正当性があるのかと考えさせ、当たり前と考えている区別はそもそも許されざる差別なのではないかと振り返らせる効果を持っていたのです。

桂秀光候補にそれはありません。それどころか自らの行為を迷惑だという訴えに耳を傾けてすらいません。ただただ自らの主張を喧伝するのみならず、迷惑という訴えに対しては謝意ではなく非難を加えています。

このような態度は、新しい支持を集めるどころか既に獲得している支持を失わせるだけです。

 

このような違いはどこから生まれるのでしょうか?

簡単です。他者をどう見ているかです。

迷惑だという訴えに耳を傾ける人は、自分のことを知的エリートだと考えていません。仮に考えていたとしても他者もまた自分と代わらぬ水準の知性の持ち主であると考えています。自分に主張することがあるように、自分に文句を言う人にも主張があることを納得しています。意見の違いはあるが意見を受け入れ合うことはできると考えているのです。

耳を傾けない人は、自分を知的エリートと信じて疑いません。自分は正しくて相手は間違っていると信じて疑いません。自分に対する反発は愚者が知的エリートである自分に見せる許されざる反発であり、撲滅して屈服させる以外の選択肢が許されないことだと考えているのです。桂秀光候補が今回の行動を全て計算でしていたのだとすれば、その計算は間違った計算だと言うしかありません。そもそもそのような考えを持っていなかったのだとすれば、ただ単に頭が悪いだけです。

 

今回の茅ヶ崎市長選挙で、話題の桂秀光候補は最下位で落選しました。

茅ヶ崎市に限ったことではありませんが、有権者は候補者が考えているような愚者ではないのです。それを忘れた戦略と戦術の選択は、必ず失敗します。

ビジネス書を作ってみた

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ありがちなビジネス書です。

しかし、この本はどこにも売っていません。

なぜでしょうか?

 

私がコミPo!でそれっぽく作った画像だからです。

もし、この本の画像が本物のビジネス書であるかのように広まったとしたら、まあ、面白いことになるだろうなぁ、と思うわけです。

コミック用のブログサイトを作ってみた。

既に御存知の方も多いと想うが、徳薙零己はコミPo!という漫画作成ソフトを使ってマンガを作って公開している。

歴史解説マンガであったり、

rtokunagi.amebaownd.com

 

P.F.ドラッカーを解説するマンガであったり、

rtokunagi.amebaownd.com

 

四コマ漫画であったりするのだが、

rtokunagi.amebaownd.com

新しいマンガを作ったら、ブログの作風に合わないことに気づいてしまった。

 

さて、どうしたものか。

 

その結果、一つの結論を出した。

 

新しい漫画の作風に合わせたブログをもう一個作る。

 

そこで始めました。

Reiki's Collection Cafe

rtokunagi-comic.hatenablog.jp

 

マンガを作って載せたら、備忘録にも公開情報を載せるようにします。

サッカーのスタイル作りについて考えてみた。

浦和レッズと言えばJリーグのクラブを真っ先に思い浮かべるが、実は女子サッカートップリーグであるなでしこリーグ1部にも浦和レッズがある。

正式名称は浦和レッドダイヤモンズレディース
浦和駒場スタジアムを本拠地とし、男子とほぼ同じユニフォームを身にまとって試合をしている。

ただ、男子と女子では決定的に違う点が一つある。
それはサッカースタイルが確立されているか否か。

男子の場合は監督が替わるとフォーメーションが変わり、試合の運び方も変わるが、女子の場合は監督が替わろうと全く同じフォーメーションで、全く同じ試合の進め方をする。

ゴールキーパーの前はディフェンスラインが4バックで並ぶ。
ディフェンスラインの前はミッドフィルダーが4人。センターハーフとしてやや後ろ気味に位置する2人と、オフェンシブハーフとしてややワイドに位置する2人がいる。
最前線のフォワードも2人。

図にするとこうなる。

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守備時と攻撃時とで多少のポジションの変更があるものの、基本的に一つのポジションで複数の役割を求められることはなく、11人の中の1人としての役割に徹することで、11人として最高の結果を出すようにできている。そのため、選手一人一人の役割が明確化されると同時に無駄な体力の消耗を防いで90分に渡って全力を出し続けられるようになっている。

 

守備時

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攻撃時

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これは女子代表なでしこジャパンが採用しているシステムであり、Jリーグでいうと鹿島アントラーズが採用しているシステムに近い。

 

このシステムは、浦和レッズレディースがまだ「さいたまレイナス」と呼ばれていた頃に田口禎則監督が導入したもので、それまで優勝はおろか優勝争いとも無縁であったレイナスはこのシステムによって2004年に優勝、それも年間無敗での優勝という脅威の強さを見せつけた。

その後、監督が何度か替わったがサッカースタイルは変わることなく、優勝2回、2位2回、3位4回という安定的なサッカーをするようになっているが、注目すべきは低迷したとき。

2013年、2016年と低迷したシーズンはあったが、低迷して監督を変えることはあっても、サッカースタイルは変えなかったのである。

 

これを踏まえて、私はこう言いたい。

サッカースタイルの確立は難しいが、浦和レッズレディースはできているのである。

同じ浦和レッズなのに、男子はなぜできていないのか、と。

 

仕事の見直しについて考えてみる

 ブラック企業とは何でしょう?
 ブラック企業の条件はただ一つ、「労働条件が厳しい」です。
 ・残業が日常化しており定時で帰るなどあり得ない。
 ・朝日が昇る前に家を出て、職場でずっと働き、家に着く頃には日付が変わっているなんてことも。
 ・その上、残業代が出ない。
 ・休日も働かなければならず、休んでいたとしても電話が架かってくる。
 ・それでいて給与が安い。
 こんな企業はたくさんあります。
 ですが、どうしてその職場はそんなにブラックなのでしょう。
 どんな経営者も、自分の会社をブラック企業とさせようと会社を興したのではありません。
 どんな従業員も、ブラック企業で働きたくてその職場に就職したのではありません。
 ブラック企業ブラック企業として誕生したのではなく、ブラック企業になってしまった企業なのです。
 そして、ブラックとなった理由を突き詰めていくと、ある一定のパターンが見えてきます。
 ということは、そのパターンから脱出することができれば、ブラック企業から脱出することができるのです。

 

 過酷な現実があります。
 それは、ブラック企業は早いうちに潰れるという現実です。
 労働条件が厳しい企業は長続きしません。競争の波に飲み込まれた敗者がブラック企業なのです。経営が厳しくなり、滅びの道に抵抗している過程にある企業、それがブラック企業です。その抵抗というのが従業員を締め付けることでの支出削減なのです。
 勤め先のブラック企業ブラック企業としたままで働き続けた後に待っているのは、苦難に耐えた後の栄光ある未来ではありません。過労で倒れるか、さもなくば倒産による失業です。そうなってしまったら、心身ともに疲れ果てたあなたを助けてくれる存在などどこにもありません。再就職にもがき苦しみ、運悪く再就職できなかったら、年金も貰えず、生きるために家も車も売り払い、身の回りには何も残っていない老後が待っているだけです。
 職場がブラック企業であるときにとるべき手段は二つ、一つは職場をホワイト化する、もう一つは職場から一刻も早く脱出する、この二つの手段しかありません。

 

従業員の立場から仕事を見直そう

 働きかたの中に、明らかにおかしなところがありませんか。
 多すぎる会議。
 多すぎる書類。
 多すぎる勉強会。
 多すぎる仕事。
 多すぎる時間外勤務。
 それらは本当に必要ですか?
 必要なものを選び、不要なものを切り捨てれば働きかたを軽くできます。
 働きかたを軽くすれば仕事時間を短くでき、長時間労働から解放され、ホワイト化への第一歩を築けます。
 切り捨てることが出来ずにブラック企業で苦しみながら働くより、切り捨ててホワイト化した職場で働く道を探すべきです。


その会議は必要ですか?

 ・連絡と進捗確認のための会議を毎週水曜日の午後二時から第三会議室で行う。
 ・会議は課内の全員が参加する。
 ・会議の前に全員分の資料を作成し印刷して準備しておく。
 ・会議が終わった後に議事録を作成し、参加者全員のチェックを経た後に議事録を全員に配る。

 このような取り決めのある職場は多いでしょう。
 そして、待っているのは次のような現象ではありませんか?

 ・会議の前は会議用資料の作成に追われて本来の仕事どころではない。
 ・スケジュールが迫っているのに、会議に無理矢理参加させられる。
 ・会議に参加しても集中できず、ただボ~っとしている。中には寝ている者もいる。
 ・会議の中身は、わざわざ全員を参加させる必要のない内容。 
 ・印刷してホチキス止めするだけでもかなりの手間がかかる。場合によっては昼休みを返上しなければならない。
 ・そうして作ったせっかくの資料はほとんど読まれない。
 ・会議の資料は会議の終了から一時間も経たずにゴミ箱へ捨てられる。
 ・議事録作成のために仕事を後回しにせざるを得なくなる。
 ・議事録は読まれることなくこれまたゴミ箱へ直行。
 ・会議で中断させられた仕事が定時に終わらず、残業する。

 はっきり言います。こんな会議は無駄です。大いなる無駄です。
 仕事とは顧客満足のための活動です。お客様に喜んでいただくモノを提供する、お客様に満足していただくサービスを提供する、そのための活動が仕事です。
 こんな会議は仕事ではありません。仕事に活きるアイデアを皆で考え出す場が会議なのに、こんな会議ではどこをとっても顧客満足とつながらない無駄な儀式にしかなりません。
 その無駄な儀式である会議のために貴重な時間が費やされます。定時時間内で行われる会議は仕事の時間を減らし、定時後に行われる会議は残業を招きます。自主的な会議と銘打って残業代を出さずに定時後に会議を開催するなど論外です。ただ疲れるだけで何の成果も得られません。
 社内の連絡事項を伝える、あるいは現在の作業進捗を管理する、そしてその場に全員を無条件で参加させる。そんな会議を開催する意味などどこにもありません。
 連絡事項は、週に一度の会議に合わせるのではなく、情報が入り次第、メールで全員に送ればいいのです。
 作業進捗の管理などは機械的にやればいい話で、人間がわざわざ時間をかけてやることではありません。
 社員に伝えるだけの資料作りに手間ヒマかける必要もありません。多少の誤字脱字があろうと、読めればいいのです。エクセルやワードできれいに作る、さらにはパワーポイントで凝りに凝った資料を作る、そんなのはいりません。テキストファイルに箇条書きすれば充分です。
 人数分の印刷も要りません。資料がどこに保存しているのかの情報さえわかっていれば、必要となればそこを見ますからそれでいいのです。
 会議で皆の意見を求めたい? 冗談もいい加減にしてください。仕事を中断させられて無理矢理参加させられた会議に意見なんかありません。あるとすれば「こんな無意味で下らん会議、さっさと終わらせてくれ」という意見だけです。
 議事録作成など仕事に優先するような作業ではありません。会議の様子を録音しておいていつでも聞けるようにしておけば議事録なんかいらないのです。
 会議が必要なのは皆で知恵を出し合わなければならないときだけです。それとて、会議に参加できる余力のある人の中から知恵を出すのに必要な人だけを集めればいいのであって、全員である必要はありませんし、ましてや仕事中の人間を無理矢理連行して開催するなど百害あって一利なしです。
 会議なんかいらないのです。会議をやる暇があるなら仕事をすることです。

 
その書類は必要ですか?

 書類を作りました。
 書類が書式に従っているか、誤字脱字がないかチェックしました。
 チェック項目は、これまでの業務で現れた書類作成時のミスをまとめたチェックリストです。
 チェックリストに従って一項目ずつ目でチェックし、全てのチェックで問題がないことを確認します。
 さらに上司にチェックをしてもらいました。上司もまた、同じチェックをします。
 全てのチェック項目について、作成者本人と上司の二人分のチェックが入って、書類は正式なものとなりました。

 これ、仕事ですか?
 あなたは書類を作りたくてその仕事に就いたのですか?
 あなたは書類をチェックしたくて上司になったのですか?
 書類作りも会議と同様、仕事と関係ない儀式です。顧客先が要求する書類であることもありますから全てが無駄な儀式だとは言いませんが、仕事でないことに違いはありません。言うなれば仕事ではないがやらなければならない面倒くさい儀式です。
 一つの書類作成に掛けていい時間は五分までです。五分以上かかるようならその書類を作る専門の人間を雇うか、その書類を作るコンピュータプログラムを導入することです。そのどちらもせず、仕事をする人間に仕事をさせずに仕事でも何でもない書類づくりに仕事時間の一部を割かせるなど愚の骨頂、時間の無駄でしかありません。
 ビジネスの世界で定型の用紙があることはごく普通にあります。ですが、そこに手書きをすることが求められることなど何があるでしょう? ラブレターならいざ知らず、ビジネスで使う書類をエクセルやワードで作らず手書きさせるなどあり得ません。せいぜい、署名と捺印が手作業になるぐらいでしょう。
 手書きでないならば、そのエクセルやワードが定型書式に従っているか、VBAでマクロを組んで自動でチェックさせればいいのです。これまで発覚したミスと同じことを起こしていないか、マクロの中にチェック項目を次々と追加していけば、その書類の書式をチェックする優れたプログラムができあがります。何しろ人間と違ってコンピュータは一項目ずつ確実にチェックしますから見落としなんてありません。できあがった書類はこれまでのチェック項目を全て通過していますから、それ以外のミスがないかをチェックすればいいだけになるのです。
 それに、他の人が以前に作った書類の記録があれば、その記録を読み込んで、自分の内容に書き換えるだけでいいのです。これなら、氏名などの変更箇所だけ確認すればいいのです。
 さらに進めば、そもそも書類を作るのではなく、必要最小限の項目さえ入力すれば勝手に書類ができあがるVBAのマクロだってできます。この場合は、印刷して出てきた書類の中の必要最小限の項目の内容だけチェックすれば終わりです。
 面倒な儀式のために、仕事をしている人間の貴重な時間をつぎ込むなど言語道断です。面倒な儀式は専門の人間を雇うか、あるいはコンピュータに任せればいいのです。新たに人を雇う、あるいはプログラムを組むという初期投資は必要になりますが、面倒な儀式を代行させれば仕事時間が増えることとなります。

 さらに一歩進んで、そもそもその書類は本当に必要なのかを考えてみてもいいでしょう。書類なんか無くても問題ない業務なのに書類を使っていることはありませんか? 対外的に書類が必要なケースはやむを得ないにしても、社内であれば、書類をやめてしまって、社員がアクセスできるサイトで必要最小限の項目を入れれば社内用の書類を提出したこと同じになる仕組みはもうあります。
 勤務時間の報告書類なんていりません。拘束時間の開始が勤務開始であり、拘束時間の終了が勤務終了です。Suicaなどのカード記録を調べれば拘束時間がわかりますし、パソコンの電源で拘束時間の管理もできます。こんなもの書類にする必要もありません。
 交通費の申請書類なんていりません。最寄り駅と目的地を入れれば自動で経路と金額が出ます。
 休暇申請の書類もいりません。休暇予定日と休暇理由を選べばそれで申請完了です。
 自動化を導入すれば社内の書類なんていらなくなるのです。
 それをわざわざ紙に起こして書かせるなど、時間と紙の無駄でしかありません。

 書類づくりは仕事ではない。
 書類は限界まで減らす。
 これを徹底させれば仕事時間を増やし拘束時間を減らせます。


それはこだわることですか?

 お客様に見てもらう資料を丁寧に作る。そのために、
 ・資料の重要な部分にマーカーを引く。その際、色は黄色とし、定規で正確に直線を引く。
 ・マーカーを引いた部分には見出しとなる付箋紙やインデックスシールを貼る。その色も統一する。
 ・付箋紙やインデックスシールの順番も、上から順番にチェックできるよう、等間隔で順番に並べる。
 ・品質に影響はないが、資料として不適切な箇所があれば全体を作り直す。
 ・そして全てを紙に印刷して、ミリ単位の正確さで納品する。
 という丁寧さを徹底する。
 そのために時間をかける。

 はい、出ました。よくある無駄です。
 出版社が本や雑誌を作るとか、広告会社がポスターを作るとかならいざ知らず、たった一度見てもらうためだけの、それも、きれいさではなく内容の正確さだけが重視される資料について、見てくれを整えるために時間を費やすなんて時間の無駄以外の何物でもありません。
 受け取る立場で考えてください。
 そんなきれいさを求めますか?
 いくらきれいでも内容が正確でなければそんな資料は何の価値もありませんし、内容が正確ならきれいさなど無くても気にしません。手に取った瞬間だけはそのきれいさにインパクトを感じるでしょうが、その一瞬が終われば、きれいだろうと汚かろうと、内容が正確ならどうでもいい話となります。

 新たに店を出すという提案の資料を作るとしましょう。
 普通であればその資料に記すのは、
 「××駅南口の△△ビルの一階に空きが出る見込みで、テナント料は採算がとれる金額である」
 「来年四月に大学が移転するので需要の増加が見込まれる」
 「近隣のライバルチェーンの店舗の売り上げは以下の通りである」
 という内容であり、これらの情報は正確さを求められるでしょう。
 ですが、
 「『××駅』の部分の黄色のマーカーが定規で正確に引かれている」
 「『来年四月に』の部分の印刷が薄くなっていない」
 「『ライバルチェーン』の部分に貼った付箋紙が紙と直角になっている」
 こんなどうでもいいことに誰が注意しますか?

 資料の中で重要であるがゆえに訴えたいことをマーカーで強調し付箋を貼る。読んだ側は付箋の箇所をめくりマーカー部分を読む。これはいいでしょう。ですが、マーカーの色が何色か、色がまっすぐ引かれているか、そんなこと気にする人はいません。内容が正しいか間違っているか、それだけです。
 「お客様に喜んでいただくため」に行なう手順のうち、どれだけの手順が必要不可欠な手順でしょうか? その手順があったほうが喜ばれるならばその手順は残すべきですが、それで時間を費やした結果全体の質が下がるならやるべきではありませんし、有っても無くても問題ないというのであれば手順自体時間の無駄です。
 どうしても手順を残すのであれば、そのための人を新たに雇うか、そうした手順をこなせる機械を導入することです。仕事をしている人間に追加させるような手順ではありません。
 人を雇うのも機械を導入するのもできないなら、こんなどうでもいいことは即刻やめましょう。


印刷は必要ですか?

 業務で使う書類や資料を紙に印刷することは頻繁にあります。
 この「紙に印刷する」という行為は思いのほか時間がかかります。プリンターに何のトラブルもなく自動的に出てくれるとは限らず、紙切れや紙詰まり、トナーやインク切れといったトラブルは頻繁に発生します。
 また、モノクロで印刷するつもりがカラー設定になっていて、無駄に時間をかけたあげく印刷し直しとなることもよくあります。
 さらに、画面上の表示と印刷した結果が違っているので、印刷してきれいに見えるようにPC上で微妙な位置合わせや図形の調整をし、再度印刷してズレがどの程度か確認することもよく見られます。
 これもまた、業務時間の無駄を生む原因になります。

 そもそも、何のために紙に印刷しなければならないのでしょうか?
 少なくとも社内で使う資料を紙に出さなければならない理由はありません。エクセルやワードのファイルをそのままやりとりすればいいのです。情報漏洩が不安だというなら、パスワードをかければそれで済む話です。ISOが紙に出すことを求めているというならISOのほうが間違っているのですから、ISO取得なんか辞めてしまいましょう。
 紙以外の納品、ネットでのファイル転送や、CD-RやDVDでの納品が認められるのであれば、印刷する必要などどこにもありません。こちらのPCの画面で見えている内容ならば、顧客先でもまたPCで同じ内容が見えます。
 どうしても紙でなければ納品を受け付けないというのであれば、自社内で印刷するのではなく印刷専門の会社に依頼するか、自社内での印刷にこだわるなら印刷専門の要員を新たに採用すべきです。印刷は業務の片手間に行うにはあまりにも時間がかかりすぎる作業です。そのために既存の作業要員の仕事の手を止めて印刷をさせることはデメリットがあるのみでメリットなど全くありません。「ちょっと印刷しておいて」などと軽く言うこともありますが、それは断じて「ちょっと」ではない、仕事中断と仕事遅延の元凶です。
 印刷そのものの要否や印刷の手間を見直すだけで業務効率は劇的に改善しますし、ついでに言えば紙とトナーのコストカットにもなります。

 もう一度考えましょう。紙にする必要がありますか?


その電話は必要ですか?

 電話が鳴ったらワンコール以内に受話器を取ることを徹底している職場がありますが、電話というのは業務の手を止め、横から新たな作業を割り込ませる行為です。
 電話の内容が現在の作業を止めてでも行う価値のあるものかどうかはわかりません。価値があるならばマルチタスクを要求することになりますし、価値がないなら仕事の中断になります。何れにしても、仕事の効率を悪化させることとなります。

 机の上の電話など要らないのです。
 電話はチームに一つあればよく、鳴った電話に出ていいのはチームのマネジメントをする者だけです。
 マネジメントする者が電話に出て、電話での依頼内容が現在のチームのスケジュールにどれだけ影響の与えることであるかを判断した上で仕事を割り振るべきであり、現在仕事を抱えている者の作業を無条件に中断させてまで電話応対をさせる必要はありません。ましてや、入ったばかりの新人にさせるような仕事でもありません。
 電話に限らず、外部からの連絡についてはチームマネジメントを行う者に集中させなければなりません。それがどんなにチームの特定個人に関わる内容であろうと、マネジメントを行う者の手を介することなく、特定個人が直接外部と連絡するのは、チーム運営にも支障が出ます。
 外部からの連絡に気にすることなく仕事に集中できる環境を作ることで、仕事の効率は上がり、作業時間の短縮が図れると同時に、チームマネジメントによる仕事の割り振りにより作業の平準化も実現することとなります。
 受話器の数そのものを減らし、目の前で電話が鳴っていても、他の仕事をやっている間は出ないということを徹底すれば、業務効率はかなり改善するのです。

 電話を一人一台ずつ設置するのは仕事を便利にする有意義な投資ではなく、仕事を遅らせる無駄な投資です。すでに電話を設置してあるならば、管理職の机の上の一台だけ残して、あとは全部電話線を引っこ抜いてしまいましょう。


仕事の手を止めさせてまですることですか?

 集中している人間に横から割り込んでくるのは電話だけではありません。
 進捗管理をしているマネージャーから作業の進捗状況を確認する話が飛び込むこともあります。
 作業に不慣れな若手が質問してくることもあります。
 作った資料のチェックをするよう要請されることもあります。
 他のチームの者が自分の業務に関連することで話を持ちかけてくることもあります。
 何れも仕事の集中を途中で中断させる行為であり、作業時間を長くする事はあっても短くすることはありません。

 考えてみてください。
 手術室に乗り込み、今まさにガン細胞の摘出手術を行なっている外科医師に対して「先週は誰の手術をしましたか?」と聞きますか?
 裁判所の傍聴席に入り込み、被告の弁護をしている弁護士に向かって「ついさっきスピード違反で捕まってしまいましたので道路交通法について相談させてください」と求めますか?
 仕事に集中している人間に横から入り込むというのはこれらの行為と同じなのです。それがどんなに聞いてくる人にとっては重要なことであっても、仕事に集中している人間にとっては仕事のジャマになる迷惑行為に他ならないのです。
 進捗状況がどうなのかなど、仕事の手を止めてまでわざわざ聞くことではありません。今何をやっているのかなど見ればわかりますし、管理できていなければおかしいのです。どうしても管理できないというのであれば機械的な管理システムを作り上げるべきであり、仕事をしている人間の手を止めてまで聞くようなことではありません。
 作業でわからないことがあるならば、仕事をしている人間に聞くのではなく、まずは自分で調べることです。調べてもどうしてもわからないことがあったら、仕事の手の空いている人間に聞くことです。現時点で仕事に集中している人間が一番よくわかっているのであっても、絶対に集中を止めてはいけません。
 資料のチェックにいたっては仕事と兼任で出来る代物ではありません。全く仕事を抱えていない人間に依頼するか、資料をチェックする専門の人間を新たに雇わなければ絶対に無理です。いかにその資料に関する有識者であっても、仕事中である人間の作業を中断させていい理由にはなりませんし、仕事を中断させてチェックさせた場合のチェックの質はお世辞にも期待できるものにはなりません。
 一度途切れた集中を取り戻すのは容易なことではありません。一度中断が発生したら、最低でも三〇分、ひどい場合には一時間のブランクが生じます。集中すれば二時間で終わる仕事なのに、中断が入り込むことで三時間になり、四時間になってしまいます。それなのに、成果は二時間分の集中と同じ結果しか残りません。
 仕事を受け持ち、その仕事に集中している者のジャマをしないことが、より短時間で仕事を完了させるために最優先で取り組まなければならない行動です。質問の答えを得れば自分の仕事が終わるというシチュエーションであっても、他者の仕事を中断させる行為は許されるものではありません。

 仕事中に話しかけていいのは、その人のやっている仕事をその時点で強制終了させてしまっても問題ない、あるいは、話しかけた本人が中断させられた者に代わって仕事の続きを何の支障もなく行えると判断したときだけです。


みんなが決めたこと=正しいこと ですか?

 始業時刻は九時だけど、一時間前には自主的に出勤しよう。
 スキルアップのためにみんな集まって勉強会をしよう。
 自主的な勉強会だから業務時間外だな。
 自主的な集まりだから残業代は出ないけど仕方ないな。
 とてもためになる本だから、この土日にみんなで読んでおこう。
 読んだら感想文を書いて、月曜日に集めてみんなで発表しあおう?

 冗談でしょう?
 自分のスキルアップのためと言われてもサービス残業なんてやっていられません。一時間早く出勤するということは貴重な睡眠時間を二時間は削ることを意味しますから疲労が抜けません。その疲労を回復すべき休日の使い方を支配されるなんて絶対に受け入れられません。九時が始業時刻だというのなら九時までに出勤すればいいのです。それよりも早く出勤することを求められるなら、それより早く出勤した分は超過勤務手当の対象として請求しなければなりませんし、出勤するよう命じた側も超過勤務手当を支払わねばなりません。
 残業代をはじめとする超過勤務手当は、プライベートの時間を削った代償として職場が支払うものです。自主的な勉強会だろうと、プライベートの時間を削っている以上残業代は支払うのが義務であり、受け取るのも義務です。始業時刻よりも前に出勤させた、あるいは休日の使い方に制限を掛けたとすれば、それもまたプライベートの時間を削ることになりますから、残業代の支払い対象となります。「自主的」などという逃げ口上は通用しません。
 休日を自分の能力向上のために宛てるのは社会人としてごく普通のことですが、休日の能力向上は自分に対する投資であって、職場のみんなで決めたことの実践ではありません。
 本心では「いやだなあ」と感じることであっても、「みんなが決めたことだし仕方ないか」などという考えを受け入れてしまったら、待っているのは永遠と続く自己犠牲です。法律で決まった義務ならば守る義務もありますが、法律で決まっているわけでもないことを「職場のみんなで決めたことだから」と強制するのは明らかに法令違反です。
 会議の流れの中で「みんなで××しよう」という話が出たとき、「自分は嫌です」「どうしてもやれと言うなら残業代を全額請求します」と宣言しないと時間が奪われることとなります。仕事の時間は減るわけはありませんから、奪われることとなるのはプライベートの時間です。

 「自分は嫌です」といった者を村八分にするような職場はそう遠くない未来に破綻して潰れます。「やらないなら辞めろ」と言われた場合は、職場風土を変えるか、それができなければ潰れる前に再就職先を探して早々に辞めるのが吉です。


そこまで職場に払わせますか?

 職場で使う文具やOA機器を職場で購入していることはよくあります。
 そして、どのような文具やOA機器が欲しいかをリクエストし、ときには製品の型番を書類に記し、上長の印鑑を貰った上で、総務に提出するという手順を踏んでいる職場もあります。
 一見すると従業員の金銭的負担がゼロですから良いように見えますが、実はこれ、大きな落とし穴があります。リクエストに要する書類作成の手間がかかりすぎるのです。
 型番を調べ、書類を作成し、上長の許可を貰って総務に出す。この時間がかかりすぎるのです。出勤途中のコンビニで買えば済むもの、あるいは、帰りに文房具店にいけば手に入るようなものまでいちいち書類を書いていては時間がかかりすぎます。それに、発注した文具が届くのもまた時間がかかりますから、必要な文具を手にするまでの時間のロスは図り知れません。
 そんな手間をかけるならば、自腹を切って店で買ってくればいいのです。

 OA機器、特にPCについては職場で購入し従業員に割り振っているケースもあります。固定資産として誰がどのPCを使っているか管理することも珍しくありません。
 しかし、PCのスペックに問題があります。自分で買って自宅で使っているPCは自分の満足いく性能のPCでしょう。ですが、職場のPCが満足いく性能だとは限りません。だいたいにおいて、職場のPCは少し前の世代で処理が重いことが多いです。
 PCのスペックが仕事の作業効率に関わることは珍しくありません。電源を入れてからアプリケーションを立ち上げて使用できるようになるまで時間がかかる、仕事中のPCが固まる、予期せぬところで落ちる、こうした悩みに苦しむ者は多いのです。
 OA機器について、職場で管理するのはセキュリティーだけでいいのです。自腹を切ることになりますが、満足いく文具、満足するPCを買って持ち込めば作業効率が上がるのです。
 情報セキュリティーの問題がありますから何でも持ち込んでも構わないとまではいかないでしょうが、PCそのものや、増設用のメモリ、より大きなディスプレイ、使用する有料ソフト、こうしたものを職場のセキュリティ基準に従うという前提で持ち込むことを許せば、仕事の効率はかなり向上します。


何のために残業するのですか?

 仕事が終わらないから残業する。これはよくあります。
 一日八時間というのが労働基準法の決まりなのですが、八時間では終わらないような仕事量を命じられた上に、納期まで時間がないから仕方なしに残業する。本来は好ましいことでなく、そもそもチームマネジメントの失敗の結果なのですが、これはまあやむを得ないことと言えましょう。
 ですが、そうではないのに残業するケースもあります。
 まず、他の人が残っているから帰るわけにはいかない。
 それから、定時を過ぎてから会議の予定があるので、それまで残っていなければならない。
 これらは最低最悪のケースです。

 他の人が残っているからという理由で自分の仕事を終えた者が残るのは無意味です。残っている人が自分よりはるかに多い仕事を命じられ、かつ、自分がその仕事を受け持つことができるというならば、仕事を分担すれば早く終わるという考えもできますが(それでもチームマネジメントのミスではありますが)、同じだけの仕事の割り振りがあって、自分が早く終わり、他の人がより多くの時間を掛けているというのであれば、つきあって残業する必要はありませんし、してもいけません。定時で帰ることで、能力を上げれば定時で帰れるのだという意識を職場に持たせなければならないのです。これは、同じ仕事をより効率的に果たしたのですから、評価の対象になりこそすれ、悪評を生む理由にはなりません。
 もっと問題なのは、定時を過ぎても働いていることを前提とする会議です。
 会議を企画した人にとってはその時間まで残っているのが当たり前のことかも知れませんが、定時を過ぎてまで会社に残るのは本来ならば異常事態であり、それを前提とするのは、会議を企画した人の自己マネジメントができていないということです。長く残業することを自らの真面目さと考える、あるいは、より長く働いてより残業代を稼ぐことを信条とする人はどこにもいますし、それはそれでその人の考えなのですから、もう手遅れですしとやかくは言いません。ですが、他者に押しつける概念ではありません。
 残業は無能の証です。
 急に飛び込んだ仕事ならいざ知らず、前もってわかっている仕事が定時までに終わらないのは、その人の仕事量が多すぎるか、その人の仕事をこなす能力が低いということです。前者であればチームマネジメントの無能の証ですし、後者であれば能力そのものの不足です。
 勤務時間外に予定を組むのは、予定を組む者の無能の証です。予定を組んだ本人がどうしても仕事が終わらずにその時間まで残るのはやむを得ないとしても、その巻き添えで他者にまで影響を与えるのはただの無能です。
 他者の目を気にせず定時になったら帰る。仕事がまだ残っていても明日に回せるのであれば定時に帰る。定時外の予定は組まないし組ませない。組んだとしても無視する。職場としてこの方針を明確にしない限り、職場のブラック度は高まり、早い段階で破綻して潰れます。

 残業を前提する企業風土があり、何をしてもその風土が改まらないのであれば、企業のマネジメント能力は絶望的に低いということです。そんな企業に未来はありません。一刻も早い脱出を検討しましょう。


そもそも人数は足りていますか?

 一人で三人分の仕事をこなす人がいます。とても優秀で、普通の人ならば六時間かかる仕事を二時間で終えるような人です。
 このようなハイスキルの人間がいると、チームで受けた仕事は次々とこなせますし、一見するとすばらしい成績を残します。
 ですが、そのチームは永続するでしょうか?
 本来ならば三人が必要なところを、三人分の仕事をこなせる一人だけを雇うのでは、その個人にかかる負担があまりにも大きすぎ、早々にその個人が過労で倒れます。
 そもそも一人の人間が一つの仕事に専念し続けるなどありえないことです。毎月定例的に仕事があり、その仕事は今後も永遠に続く見込みであると言っても、人間ですから体調不良で倒れることもありますし、他の仕事があるので定例的な仕事にまでは手が回らないこともありますし、ステップアップを図って転職することだってあります。
 いくら優秀であっても一人に任せる仕事量は一人分のみ、三人分の仕事が必要ならどんなに妥協しても最低四人は雇う、このようにしないとチームは永続しません。
 チームマネジメントで重要なのは、受け取った仕事を「その人しかできない仕事」とすることではなく、「誰もができる仕事」とすることです。そのためには、仕事を細分化し、一人当たりの作業量を減らした上で、どのようにすればその作業がこなせるかを明確化することです。
 ハイスキルな一個人だからこなせるような仕事は、そのハイスキルな一個人がいなくなった瞬間に破綻しますし、いなくなった後釜に据えるのも同レベルのハイスキルな者でなければなりません。そのような人間に運良く巡り会えばいいのですが、そのような好都合な人間などそうはいません。だから人手不足だと嘆きます。それも、いなくなってはじめて嘆きます。
 しかし、作業を細かく分けて一人当たりの仕事量を減らすとどうなるでしょう。ハイスキルでなくても仕事がこなせるようになります。一人で三人分という無茶ができる人間を前提とするから人手不足だと嘆くのであり、一人で一人分の仕事になれば人手不足など起きません。

 目安としては、現在の仕事をこなすのに必要な人員の一・二五倍、例えば、その仕事をこなすのに最低八人が必要である場合は、一・二五倍の一〇人を配備することです。残る二人は余剰人員ではありません。チームマネジメントや、会議出席、書類作成、仕事に不慣れな者のサポートなど、他と兼任できる作業ではない作業を担当する者です。
 一・二五倍というのは業務を正常に稼働させるための必須人員です。八人が必要の時に八人しか配置しない、あるいは最低八人が必要であるところを八人以下の人員で稼働させるよう考え出したら、その会社の経営はいよいよ危ないということですから、未来はありません。健康なうちに一刻も早く脱出しましょう。

 
その人をリーダーにしていいのですか?

 すばらしい成績を残したので出世させて中間管理職にする。
 よくある話です。
 と同時に、一社員であった頃は優秀だったのに中間管理職となると全く成果を残せないという評判を受ける人もよくいます。

 リーダーシップが無い人をリーダーに据えると、本人にも、チームにも、不幸が訪れます。
 人を指揮する能力は仕事の能力と何の関係もありません。
 実際に現場に立って仕事をする能力ならばあっても、複数の人を束ねて指揮する能力が存在しない人など珍しくありません。先天的にリーダーシップがないのです。リーダーシップは教育や訓練で身につくものではありません。ゼロには何を掛けてもゼロなのです。リーダーシップを欠いた人を無理矢理リーダーにすることに何の意味があるでしょうか?
 一社員としての成績の良さに対する評価は出世ではありません。待遇です。
 職場内に明確な階級があり、階級に応じた待遇を与えるという仕組みであれば、昇格させることは評価として当然ですが、昇格に応じて人の上に立たせることを求めるのは人への評価として間違っています。評価することと人の上に立たせることをイコールに考えるような会社は、会社の評価システムそのものが間違っていますから、早々に見直しが必要です。
 どうしても評価システムを改めないのであれば、評価に値する結果を残したとしても、リーダーシップのない人は絶対に昇格させるべきではありません。誰の上にも立たないポジションのときにベストパフォーマンスを発揮する人は、誰かの上に立たせるべきではないのです。
 これとは逆に、誰かの上に立つことでパフォーマンスをより発揮するような人であれば、一社員としての評価が低いものであっても人の上に立たせるべきです。
 組織にとっての最適な人員配置として、一個人であるほうが良いか、それとも誰かの上に立つのが良いかを見定めることは絶対に必要です。リーダーに向いていないのに無理してリーダーをやらせる、誰かの上に立つほうが能力を発揮するのに誰の上にも立っていない、こういったケースは、本人にも組織にも不幸な結果となります。

 もう一度問い直しましょう。
 その人をリーダーとして良いのですか?


人をどのような基準で選んでいますか?

 コミュニケーションというのは本来、
 ・相手のわかる言葉で話し
 ・相手に興味を引いてもらい
 ・相手に何かをしてもらう
 という行為であり、それをいかにこなせるかがコミュニケーション能力です。
 
 このコミュニケーション能力、略して「コミュ力」なる語が新卒採用の場で飛び交っていますが、コミュニケーション能力を頼りに新人を採用することが必ずしも正しいとは限りません。コミュニケーション能力の高さは、将来、その企業の管理職となって皆を指揮できる可能性のあることを指し示しますが、全員が全員管理職になるでしょうか?
 管理職以外で能力を発揮して会社に大きな利益をもたらす者は数多くいます。むしろそのほうが多いぐらいです。
 コミュニケーション能力を基準に人材を選ぶなら、コミュニケーション能力が求められる職種に限定すべきです。それ以外の職種についてのコミュニケーション能力は、高ければ便利だが、低くても困らないという程度のものなのですから。

 口下手で内向的な人は、就職活動で苦戦します。コミュニケーション能力が低いとされるからです。
 ですが、システム開発力が素晴らしければIT業界でエンジニアとして充分活躍できます。コミュニケーション能力が高くてもコンピュータプログラミングができない人間はエンジニアになれませんが、コミュニケーション能力が低くてもコンピュータプログラミングができればエンジニアになれるのです。
 電子機器に対する知識が深ければ、電子製品の製造や設計で活躍できます。コミュニケーション能力が高くても自分たちの作っている製品についての知識がなければ何の役にも立ちませんが、製品に関する知識が深ければコミュニケーション能力が低くても頼れる存在になります。

 コミュニケーション能力の高い大学生だけを選り好みしている結果、就職できずにいる若者が数多く生まれています。
 新卒でない、さらには職歴に空白がある、こうした人材を無条件に切り落として何の意味があるでしょうか? 新卒で就職できなかったからという理由で雇わない、職歴に空白があるという理由で雇わない、そんな選り好みなどせずに、職場で役に立つ人材であるかどうかを見定めれば、人手不足に嘆くことなどなくなります。この国に人材はたくさんいるのです。
 コミュニケーション能力の高い新卒だけを求める人材採用は、職場の中でコミュニケーション能力が必要な部門が、どうしても新卒でなければならない人間を募集するときの採用というケースしかあり得ません。そうでないケースは、コミュニケーション能力ではなくその部門の求める能力を持っているかどうかだけを考えればいいのです。
 コミュニケーション能力が低くても、新卒でなくても、仕事を任せられるならば雇うことです。そうすれば一人当たりの仕事量が減り、職場のブラック化をかなり抑えることができるのです。