徳薙零己の備忘録

徳薙零己の思いついたことのうち、長めのコラムになりそうなことはここで

自由と豊かさについて考えてみる

猪木武徳氏の著した「自由の条件:スミス・トクヴィル福沢諭吉の思想的系譜」(ミネルヴァ書房,2016年)を読み終えた。

 

トクヴィル1831年から1832年にかけてアメリカを旅行している。

そしてこのとき、自由と豊かさの関連についての実にわかりやすい例に直面している。

オハイオ州ケンタッキー州の二つの州の対比だ。

オハイオ州の合衆国加入は1803年、一方のケンタッキー州の合衆国加入は1792年と、ケンタッキー州のほうが10年早い。しかし、トクヴィルアメリカ旅行に出る直前の1830年国勢調査では、オハイオ州が93万人の人口を要していたのに対し、ケンタッキー州の人口は68万人に留まっていた。

さらに大きな差が付いていたのが農業生産性。オハイオ州のほうがケンタッキー州よりはるかに豊かな収穫を得ており、その差は年々拡張している一方であった。

地図で見るとわかるが、オハイオ州ケンタッキー州は隣同士の州である。気候も、土壌も、二つの州の間に大きな違いは無い。しかし、トクヴィルが訪れた1831年時点ではこの二つの州に大きな違いがあった。

 

奴隷制だ。

 

オハイオ州奴隷制を認めない州として誕生した。一方、ケンタッキー州奴隷制を認める州として誕生した。誕生時の選択の結果、オハイオ州は奴隷に頼らない産業を生み出さなければならない必要が生じたのに対し、ケンタッキー州は勤労そのものが奴隷の役割と認識される文化が生じてしまった。オハイオ州では働けば働くほど働いた本人が豊かになっていったのに対し、ケンタッキー州では働くことそのものが恥ずべきものと見なされるようになった。

常に手入れの行き届いている農地であるオハイオ州と比べ、ケンタッキー州の農地は手入れどころか荒れるがままに放置され、時折、奴隷主に率いられた奴隷が奴隷労働をさせられている光景を目にするだけであった。

ケンタッキー州オハイオ州に匹敵する収穫を得ることができるようになったのは、トクヴィルが帰国してから30年以上を経た南北戦争の後である。ケンタッキー州南北戦争において南部に加わらなかった奴隷州の一つであるものの、奴隷制廃止そのものは南北戦争終結まで待たなければならなかった。

 

トクヴィルが例に示した自由と豊かさとの関係は、19世紀のアメリカに限ったことではなく、人類の歴史において普遍のことと言える。

だが、近年の経済を見るとそうとは言い切れないのではないかと思う人も出てくるだろう。中国はどうなのか、と。

中国を評して自由の国と評する人はいない。民主主義もなく、政権批判も許されず、絶えず監視され続け、チベットやウィグルでは虐殺を繰り返している。自由を求めて戦っている香港の姿が連日ニュースになっているのを見て、中国を自由の国と評する人はいない。

しかし、中国が年々貧困になっている国と評する人もいない。日本経済が中国経済に追い抜かれ、ユニコーン企業の数も、企業時価総額も、新卒給与においても日本企業は中国企業に追い抜かれている。日本は今や、追い抜き返すどころか、差を付け続けられている一方だ。なぜ日本は中国に追い抜かれたのか、そして、豊かさにおいて敗れる国へとなったのか、日本は中国より自由な国なのではないかという思いと、それなのになぜ現状を迎えてしまっているのかという思いはディレンマを呼び起こすに充分だ。

 

ただ、ここには明確な回答がある。

日本は政治的には自由でも経済的には自由な国では無い。

日本は経済的に自由な国ではないというのはどういうことか?

日本の強すぎる消費者の姿がそこにはある。日本経済は、消費者にとってはありとあらゆる者が安値で手に入る天国だが、生産者にとっては何をやっても高値で売ることのできない地獄である。そう、日本は消費者を奴隷主とする奴隷経済になっているのだ。

消費者は企業に様々な要求を突きつけ、企業はその要求の全てに応えようとする。その中には安売りを要求する声もある。安売りに応えるとき待っているのは人件費の圧縮だ。残業代を支払わないサービス残業や、休憩時間という名目での拘束時間の長期化、さらには新卒採用の抑制による総人件費の圧縮が横行した結果、少しはマシな奴隷として正社員としてしがみつくか、悲惨な境遇の奴隷として不安定な雇用に耐えるか、その二種類しか存在しない。

アルバイトに正社員と同等の仕事量と責任を背負わせ、非正規雇用が当たり前のように存在し、一度でも正社員の道から外れてしまったらもう一度正社員になるのは難しい社会になってしまった。探さなければ職はいくらでもあるとは言うが、実際に探してみたところで自分に合うような職は、無い。職が無ければ起業すれば良いではないかと考える人も居るかもしれないが、起業はもっと難しい。起業を支える資金が少ないのもあるが、もっと重要な問題は起業に失敗したときに背負わされることになる責任の重さだ。金銭的責任もそうだが社会的責任についても日本の起業しづらさは異例とするしか無い。

起業しづらい以上、既存の企業に就職するというのがもっとも安全で安定した選択になるが、その選択のときに待っているのは、奴隷になるという結末。同じ奴隷になるならばよりマシな奴隷になろうとし、今の奴隷の地位にしがみつくか、今より劣悪な境遇の奴隷に落とされるかのどちらかを選ぶよう強要される。それが今の日本の経済だ。

 

日本経済をもう一度浮上させるのには何が必要か?

二つある。

一つは日本の勤労者を奴隷制から解放すること。

二つ目は、これまで奴隷の境遇をさせられていた人の損害を全て償うことだ。 

では、誰が償うのか?

消費者である。政府でも企業でもなく消費者である。

それまで消費者が突きつけていた要求のせいで生み出されてしまった奴隷制を改称させ、消費者に責任を取らせることが奴隷解放奴隷制に対する償いになる。

では、消費者にどうやって償わせるのか?

簡単だ。値上げをすればいい。その金額に値上げされてしまっては生活できないという不満の声も挙がるだろうが、その値段に値上げしなければ働く人は生活できないのだ。値上げに対する不満を全て無視して値上げをし、値上げ分を従業員の給与に回し、非正規雇用から正規雇用に切り替えさせ、奴隷労働をさせられている人を減らす。

このサイクルを生み出さない限り、日本経済に自由と豊かさを取り戻すことはできない。

 

 

このあたりのことは、SE山城京一のP.F.ドラッカー講座「マネジメント問題の解決策としてのM&A: M&A : As a Solution to Management Problems 」を参照。f:id:tokunagi-reiki:20191208010344j:plain