いわゆる「お上」について考えてみる
権力者を「お上(おかみ)」と考え、権力に対する抵抗をレーゾンデートルとする人たちがいる。第四の権力と見なされる人たちだ。
愚かな権力者が圧政を敷いているのが現在社会であるというモデルを示し、圧政を敷く「お上」に対決する正義の自分という姿に自らのアイデンティティを置いている彼らは、自分のことを庶民の代弁者であると考え、庶民は自分の後ろに付き従う存在と捉えている。庶民はすべからく「お上」に抵抗すべき存在であると考え、「お上」に従う庶民を愚鈍な存在と見なし、そうした庶民に対する啓蒙が自らに課せられた役割であると考えている。
情報化社会が誕生する前まで、この第四の権力は絶大なものがあった。三権を覆すこともあったのだ。
この第四の権力に対し、情報化社会が第五の権力を生み出した。まさに第四の権力が啓蒙の対象と見ていた庶民が、情報化社会の到来によって第五の権力の所有者となり、権力の監視を前提とするメディアが逆に監視の対象となり、権力の嘲笑を前提とする風刺は、風刺者自身の嘲笑を生み出すにいたった。
かつては、第四の権力は庶民の側に立ったエリートであるという認識があった。だが、第五の権力を手にした多くの人は、その認識が誤りであると気づいた。第四の権力はエリートではなくノーメンクラトゥーラだったと気づいたのだ。
啓蒙の対象と第四の権力が考える庶民という存在は、第四の権力が考えているほど愚かではなく、それぞれに異なる考えを持つ存在である。第四の権力に身を置いている人にとっては認めたくないことであろうが、知性も、教養も、一般常識も、第四の権力が第五の権力を圧倒しているわけではない。むしろ上回っている。
第四の権力の提供するコンテンツである、新聞、雑誌、ラジオ、テレビの全てで、コンテンツ受容者の数、定期購読者数であったり、販売部数であったり、テレビ視聴率であったりといったコンテンツ受容者の数が減ってきているのも、第四の権力の提供するコンテンツが第五の権力である庶民の知的欲求を満たす存在に至っていないからである。
下品とか、くだらないとかの声が直接第四の権力に届けられるならまだマシで、第四の権力のもとに何の声も届かないまま、庶民が第四の権力から離れている。現在進行形で離れていっている。これが現在起こっていることである。
「お上」に逆らうことにレーゾンデートルを感じている人にとっては認めたくないことかもしれないが、第四の権力こそが今や「お上」になっている。第五の権力にとっては、三権よりも、第四の権力のほうが目障りな「お上」であり、「お上」に従って行動する愚鈍な存在は第四の権力、そして、その第四の権力に従う側のほうになっている。
第四の権力にある人は言うであろう。「権力者に抵抗しよう」と。
第五の権力にある人は言う。「その抵抗すべき権力とは第四の権力のほうである」と。
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