徳薙零己の備忘録

徳薙零己の思いついたことのうち、長めのコラムになりそうなことはここで

評判管理について考えてみる

評判について考えさせられる二冊の本がある。

 

一冊は、ダニエル・ディアマイアー氏の著書『「評判」はマネジメントせよ』(阪急コミュニケーション,2011)

「評判」はマネジメントせよ 企業の浮沈を左右するレピュテーション戦略

「評判」はマネジメントせよ 企業の浮沈を左右するレピュテーション戦略

  • 作者: ダニエル・ディアマイアー,Daniel Diermeier,フィリップ・コトラー,Philip Kotler,斉藤裕一
  • 出版社/メーカー: CCCメディアハウス
  • 発売日: 2011/12/16
  • メディア: 単行本
  • 購入: 1人 クリック: 5回
  • この商品を含むブログ (2件) を見る
 

 

もう一冊は、ジェイン・メイヤー氏の著書「ダーク・マネー」(東洋経済新報社,2017)

 

ダーク・マネー

ダーク・マネー

 

 

前者は企業がどのような悪評を受け、どのように対応したことで悪評を押さえ込むことに成功したか(あるいは失敗したか)が記されているのに対し、後者には悪評がどのようなメカニズムで生まれるのかが記されている。それも、後者の生み出される悪評は、悪評に成長してしまった評判ではなく、当初から悪評となるべく創出された悪評である。

前者は、環境や人命に関わる評判であったり、あるいは差別問題に関わる評判であったりしたのが悪評へと発展して企業や個人に大打撃を与えることとなったが、後者は情報を不充分に吟味することで最初から意図して悪評となるべく評判を生みだしている。両者ともに嘘を言っているわけではない。ただ、前者は真実なのに対し、後者は真実の重要な部分を隠して悪評を生み出すのに必要な情報だけを残し、解釈をねじ曲げ、いかに悪評が生み出している。

 

企業であったり、個人であったり、このような悪評が自分に向けられたとき、対処方法は三つある。

一つは、悪評の根拠になっている証拠を受け入れ、適切な対応を取ること。真摯な対応を見せることで評判を取り戻すケースは意外と多い。悪評の根拠を示している人に直接会い、その悪評が事実であると認め、誰もが見ている場でそれまでの責任と今後の対応を示すというのは、一時的に大きなダメージを受けることとなるが、長期的には信頼の回復につながる。

さらに言えば、責任を示し、反省を示し、対応策を示していてもなお悪評を繰り返している人のほうが今度は悪評を受ける立場となる。

 

しかし、それが必ずしも正しい対応であるとは言えない。特に、悪評のほうが間違っている、少なくとも真実ではない評判であるというとき、その評判に従う義務はないし、信頼の回復を取り戻したとしても、悪評の根拠のほうが間違っているときに悪評に従っていてはむしろマイナスになる。

悪評を否定する客観的証拠を示すこと。特に後者のケースで見られる情報の不充分さに対し、全ての情報を公開することによって悪評そのものが間違った解釈であるという評判を生み出すことは、評判管理としてきわめて有効である。(そして、意図した悪評を生みだした者にとっては致命的な打撃となる)

とは言え、前者のような悪評の場合、それは難しいのは事実である。『環境に問題がある』『明らかな差別が見られる』『人命にかかわる話である』という証拠を伴った悪評に対するのに必要なのは『環境に問題なし』『差別には該当しない』『人命への影響は皆無である』という証拠を示さねばならないのである。これは難しいが、成功した場合の効果は極めて高い。何の問題も無いことが示されたとき、悪評を生みだした、そして、悪評をぶつけていた側は、為していた攻撃を上回る攻撃を受けることとなる。

 

そして、対処方法のもう一つが、沈静化するのを待つ。

人の噂も75日とは言うが、実際にはもっと早い段階で悪評は小さくなる。しかし、小さくなるのであって消えるのではない。悪評の火はくすぶり続けるし、忘れ去られることのなかった悪評は簡単に蘇り、再び攻撃を、それも以前より激しい攻撃を示すようになる。

さらに言えば、悪評で傷ついた信頼は元に戻らない。悪評をそのままにしていたとしても、元の信頼を取り戻すことはない。転落のスピードを遅らせることができるだけである。

それでも元の信頼を取り戻せないにしても、完全に転落しきるわけではないのだ。そして、絶頂期を取り戻すとまでは言わないにせよ、底辺からの再起は不可能ではなくなる。

 

悪評を受けたときに絶対にやってはいけないのが、悪評を向けている人間に対して感情的に対応すること。悪評を向けている人間は決して支持を集めることがないが、悪評に感情を持って対応している人間もまた支持を集めることはない。

 

人は本質的に、誰かの悪口を言う人間を好ましく思わない。

悪評というのは悪口を言われることである。その悪口を言う人に対して、感情的な悪口で相手にするというのは、好ましからざる人物に自分自身を堕してしまうことを意味する。

悪評が発生したときに為すべきことは、悪評をぶつけている人間よりも上位に立つことである。悪評をぶつけている人物のほうを非難されるべき対象とさせるようにするのは、評判管理という点でわりと有効な手段である。

上西小百合の暴言について考えてみる

7月15日(土)に埼玉スタジアムで開催された浦和レッドダイヤモンズvsボルシア・ドルトムントの試合後に、衆議院議員上西小百合Twitterに書き込んだ内容が波紋を呼んでいる。

90分間真剣に戦った選手達に対する敬意の欠片もないこの発言に対する反発は強く、数多くの批判が寄せられているが、これに対し、上西小百合は謝罪も反省も見せることなくこのような反応を示している。

批判の多くは当然ながら浦和レッドダイヤモンズのサポーターからのものであるが、それに対する上西小百合の対応は、当初はこう。

 次に、街頭演説を浦和で実施するという話になり

 

となった。

上西小百合は当初、浦和レッドダイヤモンズのサポーターだけが批判を向けているのだと考えていたようであるが、選手たちに対する敬意の無さについては、浦和レッドダイヤモンズという一つのサッカークラブに留まらず、サッカー選手、そして、サッカーを愛する全ての人に対する批判を招くこととなった。 

そして、この暴言へと繋がる。

 

今後どのような動きを見せるのか。普通に考えれば「明日以降の動きに興味のあるところである」と締めくくるところであるが、実は全く興味が無い。より正確に言えば、上西小百合に何の興味を持てないし、上西小百合などどうでもいい。

明日以降何かあるかもしれないが、それにつきあうつもりは毛頭無い。

文明と格差について考えてみる

そもそも文明社会とは何でしょうか?

 

ラグジュアリー戦略―真のラグジュアリーブランドをいかに構築しマネジメントするか

ラグジュアリー戦略―真のラグジュアリーブランドをいかに構築しマネジメントするか

 

 

ジャン=ノエル・カプフェレ、ヴァンサン・バスティアン両氏の共著、「ラグジュアリー戦略~真のラグジュアリーブランドをいかに構築しマネジメントするか~」はラグジュアリーブランドの構築について記した本ですが、その冒頭に文明についての定義について考えさせられることがありました。

 

ラグジュアリーの起源は死者を埋葬しはじめたときから始まる。

 

その上で、ラグジュアリーは文明社会には必ず存在するものだと述べているのです。

本はそのあとでラグジュアリービジネスの構築と事例を述べているのですが、私はこの本を読んでいる間、冒頭にあった文明の定義がどうしても脳裏から離れなかったのです。

ラグジュアリーを人が人として生きるために発生するものであると定義しているところをそのまま「文明」と置き換えることもできるのではないかと考えたのです。

 

文明の定義を「人の命に関心を持つ」と定義したらどうでしょうか?

 

命に関心を無くした社会を創造してみてください。戦争であるとか、革命であるとか、あるいは大規模自然災害であるとか、たくさんの人が命を落としている場面を迎えると人間はどうなるかを。

そこに文明を感じることができるでしょうか?

 

「自分は人の命を大切にしている」と信じて疑わない人もいるでしょうが、目に入らないところで失われている命にも関心を持つでしょうか? あるいは、自分が敵と考えている人に対する命に関心を持つでしょうか? 誰かに対して「死ね」と言ったり、さらには死を娯楽素材としたりしていませんでしょうか?

そこに文明を感じることができるでしょうか?

 

文明の定義を人の命に関心を持つとした場合、文明崩壊は人の命に無関心になることと定義することができます。先に挙げた、戦争、革命、大規模自然災害は、人の命に無関心になるがゆえに文明崩壊と定義できるのです。

と同時に、この文明崩壊の定義はそのまま、皮肉と言うべきか、トマ・ピケティの「21世紀の資本」にあった格差解消の三つの起因にもなります。裏を返せば、文明社会を作り上げていることがまさに格差を生み出す要因であり、文明社会が進展すればするほど格差が広がるというパラドクスがあるのです。

しかも、格差の広がりがまさに人の命に関心を持たせなくなる土壌を生み出すのです。過労死するまで働かされたり、人権が奪われた暮らしをさせられたりする人たちがいて文明社会が成立してしまい、そこに人の命に対する関心の欠落を伴っているのです。聞いてみてください。「今まさに困っている人を助けるべき」という質問に対する答えはYESですが、「自分の生活が不便になったり値上がりしたりするのを受け入れますか」という質問に対する答えはNOであるはずです。文明社会と考える暮らしに生きる人が文明社会を維持するために人の命に無関心になり、文明社会を壊しにかかるというパラドクスもあるのです。

これは大問題であると多くの人は考えるはずです。そして、格差を無くすべきだ、と。

21世紀の資本

21世紀の資本

 

ところが、格差解消を訴える人たちは往々にして物騒です。言うなれば、非文明人的な行動です。攻撃的で、血が流れても関心を見せず、自分の正義と考えることならば命が失われても関心を示さないという物騒さに恐怖心を抱く人は多いでしょう。私もそうです。そして、「なぜこんな物騒なことができるのか」とも考えるのです。

ですが、格差を縮めるために選ばなければならないのが文明崩壊であるならば、その物騒な行動も、納得はできなくても理解はできるのです。大規模自然災害は人間の手でどうこうなるようなものではありませんが、残る二つ、戦争と革命は人間の手で生み出すことができます。人間の手で生み出す文明崩壊が革命と戦争というものです。

格差解消という崇高な目標のために文明を破壊するか、成熟ゆえに文明衰退を受け入れるか。それしか選択肢はないのでしょうか? 他に選択肢はないのでしょうか?

 

あります。

文明社会の成熟を認めなければいいのです。

まだまだ成熟の余地があると考え、成長の余地があると考え、成長を続けるのです。

ここで冒頭にあったラグジュアリーに戻りますが、成長が続くことは、成長を捨てた人にとって手に入れたラグジュアリーの地位を失うことを意味します。激しい抵抗となるでしょうし、実際になっています。

それでも、文明社会の崩壊や破壊を招いて人の命に無関心になるよりはマシだと思うのですが。

 

(相変わらずだらだらした文章になった)

お金と安全について考えてみる

これの続きです。

tokunagi-reiki.hatenablog.com

 

ヤップ島の石の貨幣は、とても価値のある貨幣です。

f:id:tokunagi-reiki:20170628225625j:plain

大きな石の貨幣ですと家一軒を買えるほどの価値があります。

にもかかわらず、野ざらしなことも当たり前です。

それどころか、船に積んで運んでいる途中に船が沈んでしまい、海の底に沈んでしまったものもあります。

 

それなのに、誰も勝手に持って行きません。つまり、盗まれません。

なぜでしょう?

 

答えは簡単で、誰が持ち主か島の誰もが知っているから。

 

勝手にこの石の貨幣を持って行って何かを買おうとするとしましょう。

結果は惨たるものです。誰も売ってくれません。石の貨幣の持ち主は誰なのか知っているわけですから、持ち主でない人が持ってきて貨幣を使おうとしても使えないわけです。

 

さらに、石の持ち主が買い物をしようとしても用途は限られます。家一軒の価値がありますから家との交換なら問題ないと思われます。あるいは、漁業に使う船との交換でも問題ないと思われます。また、命懸けで自分を助けてくれた人に対しての感謝の気持ちとしても問題ないと扱われます。

しかし、その価値はないと扱われた取引は認められません。「そんな安物との交換で石を手に入れるなど許されない」となると、取引は中止させられます。

 

石の貨幣を使うのに必要なのは、正当な持ち主であるという認識、そして、等価交換であるという認識です。こうなると、盗むだけでなく、不正な取引もできなくなるわけです。

 

 

さて、この石の貨幣のセキュリティに相当する仕組みは現在、真剣に検討されています。ビットコインに利用されているブロックチェーンもそうですし、前回書いたクレジット会社の手がけるデビットカードもそうです。

そのどちらも、誰が、いつ、どこで、どのような理由でいくらの取引をしたのかが全て記録される仕組みなわけですが、ここに、不正な取引を監視する仕組みを投じたらどうなるでしょう?

犯罪を激減させることができます。

また、取引に関わる監視が働いて脱税もできなくなります。

監視されるということに危惧を感じる人もいるでしょうが、代わりに安全と財政の改善を手にすることとなるのです。

 

これが、高額紙幣を廃止すると同時に取引を透明化するということです。

自分の金が盗まれるかもしれないという心配と、自分の金の使い道が監視されるという心配とを天秤に掛ける時代が来たということを受け入れる必要があるのかもしれません。

 

まだうまくまとめきれていませんが 、たぶん、この続きは別途。

 

現金の呪い――紙幣をいつ廃止するか?

現金の呪い――紙幣をいつ廃止するか?

 

 

将来のお金の姿について考えてみる

お金というと、紙幣だったり、あるいは硬貨を思い浮かべる。

どちらも財布から取り出してレジに出すというイメージが伴う。

 

ところが、現金を使うことが減ってきている。

Suicapasmo、あるいはWAONといった電子マネーで買い物をすることが多くなってきているし、クレジットカードでの支払いも増えてきている。

さらにはここに、デビットカードが加わった。厳密に言えばデビットカード自体は昔から存在していたのだが、クレジットカード会社と連携したデビットカードが出てきた。

デビットカードで買い物をすると、買った瞬間に口座の残高から引かれる。使えるのは銀行口座の残高分までだ。ゆえに、使いすぎることもない。実際には定期預金との総合口座の場合は、定期預金の預入額の90%、あるいは200万円を上限とした自動貸出機能もあるが、それでも預金残高以上を使い込むというわけではない。

 

昔から存在していたデビットカードにクレジット会社が関わることになったことでどうなったか?

こうなった。

 

世界中どこでも買い物ができるようになった。クレジットカードが使える店なら世界中どこでも利用可能だ。

 

買った瞬間に口座から引かれる。アメリカで100ドルの買い物をしたとき、1ドル111円で、手数料が100円かかったとすると、買い物をした瞬間に11200円が口座から引かれる。

 

クレジット会社の持つ調査機能がそのまま保険となる。不正利用をされた場合、使われた金額が戻るし、不正の疑いがあったら本人に照会が来る。

 

そして、銀行の預金通帳は、いつ、どんな理由で出金したかが記録されるようになった。もっとも、今のところはまだ「カイモノ」とか「テスウリョウ」とかの大雑把なもので、「さば味噌煮定食 540円 出金」とまではいかないが。

 

このどこにも現金は登場していない。登場しているのはデビットカードだけだ。

ただし、それでもデビットカードを取り出して使うという点は残っている。つまり、財布、あるいは財布に相当するものは必要としている。スマートフォンを読み込ませることもあるが、それでもスマートフォンをカバンなりポケットなりから取り出すというワンクッションは必要となる。

 

これがさらに一歩進むとどうなるだろうか?

 

私は、指紋や静脈認証などが支払いのキーになる時代が来るのではないかと考えている。カードを出すのではなく、手のひらをかざすだけで支払いが完了し、その瞬間に口座から引かれるという時代になると考えている。

電子マネーへのチャージではなく、支払いをするたびに商店からクレジット会社を経由して銀行に情報が送られ、銀行に金銭の支払いの詳細な記録が蓄積されていくのではないかと考えている。

 

利用者にとっては便利になると同時に、安全も手にすることとなる。財布を盗まれたり、電子マネーを盗まれたりという事件は残念ながら存在するし、恐喝されるという事件も存在する。だが、自分の手のひらだったらどうなるか?

買い物が監視される時代は不気味と言えば不気味だ。それに、自分のこれまでの買い物の姿が情報として第三者に蓄積されてしまうことの危惧も理解できる。

それでも考えなければならないことがある。それは、時代が既にそのように動き始めているということ。これまで通りの現金決済も、国によっては一定額以上の売買については現金決済を禁止するようになってきている。決済はクレジットや小切手など決済の記録の残る方法でしか認められなくなってきているのだ。もっとも、そこには税の補足という考えも見え隠れしているし、地下経済を干上がらせるという目的も存在しているが。

 

現金決済に上限を設けている国の例

  • ベルギー 3,000ユーロ
  • フランス 1,000ユーロ(ただし、非居住者は15,000ユーロまで可)
  • スペイン 2,500ユーロ(ただし、非居住者は15,000ユーロまで可)
  • ギリシャ 1,500ユーロ
  • イタリア 1,000ユーロ

さらに、インドでは高額紙幣を廃止するという思い切った方法で現金決済を減らすという思い切った方法をとった。

日本でももし、これらの国のように高額紙幣を廃止し、一定額以上の取引は現金の使用を禁止するとしたらどうなるか?

このあたりのことは、後日、まとめて。

 

現金の呪い――紙幣をいつ廃止するか?

現金の呪い――紙幣をいつ廃止するか?

 

 

ここでいろいろなことを書いてみる

徳薙です。

 

アメブロでは二重人格やってます。

 

あるいは多重人格としても良いかもしれません。

 

Short+α というブログでは毎日ふざけたこと、

ameblo.jp

 

いささめというブログでは毎日まじめなことを書いてます。

ameblo.jp

 

それでもまだ書き切れないことがわりとあるので、ここで書いてみようかとしています。

まあ、これから先どうなるかわかりませんが、よろしくお願いします。